発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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室町殿炎上

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年8月20日

室町殿遺跡を検討するためには、室町殿が実態としてどのくらい使われており、その結果どの程度の遺構が残されているかを事前に調べておく必要があります。更新された「資料編・室町殿」をみながら、あらためて整理してみましょう。

まず3代将軍義満の室町殿ですが、1378年から1397年の北山殿移徙までの約20年間が最盛期で、壮麗な殿舎が建ち並び、「かも河をせき入れ」た水面1町の大池には滝もつくられます。しかし4代将軍義持は三条坊門に御所を築いたため、室町殿はあまり使われていなかったようです。6代将軍義教は1431年に室町殿を再築し、約10年間にわたって義満時代に負けない邸宅を築きます。後花園帝の行幸もあり、上御所の池には舟も浮かべられていたようです。その後室町殿の敷地は南北が1.5町に縮小し、建物も一時的にほかへ移されたりしますが、8代将軍義政は1459年に室町殿の立柱上棟をおこない、1464年には後花園院の行幸を得、およそ15年間におよび池と建物に土木の工を尽くした邸宅を甦らせます。したがってこれらの時期(14世紀後葉・15世紀第2四半期・15世紀第3四半期)の室町殿は確実に機能していたことになります。

しかしながらこれ以降の室町殿については詳しいことがわからなくなります。森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』に学びながら、この後の時代の室町殿をみていきましょう。

文明8年(1476)11月13日、室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋が放火され、室町殿の北西部から周辺一帯が被災し、義政は小川御所へ移ります。1479年には室町殿復興がはじまりますが、すでに敷地の周縁部には町屋が建ち並び、応仁の乱中に陣屋が建っていた裏築地の町屋は撤去したものの、南の町屋は撤去できず、南の敷地を放棄する形で、築地は東西・南北40丈の範囲に縮小されます。なお義政はその間も小川御所にいたようで1480年の年賀をそこで受けています。ところが、再建まもないその年の4月、室町殿は再び火事にあって消失。1481年に再度の再建計画がたてられますが、義政は東山殿の造成をすすめ、義尚も小川御所を継いでそこを本拠とします。その結果室町殿があった場所は、1485年には「花御所跡」と呼ばれるようになり、庭石や大松が運び出されるなどの荒廃がすすみ、1496年にはその東北の一部が土倉(金融業者)に売られるまでになったようです。したがって文明8年の大火以降、室町殿は実態としては機能しておらず、まわりの通り沿いに町屋が建ち始める一方で、その中心部では、遺構はともかくそこにあった品々はほとんどが持ち去られ、堰がはずされて水の涸れた大池の跡と無人の建物が散在する姿がみられたのでしょうか。町田家本洛中洛外図では室町上立売の南東に町屋が描かれていますが、それはこういった室町殿の変遷の結果を示している可能性があります。

そして天文11年(1542)閏3月、66年ぶりに北小路室町の旧地に室町殿が再建されます。しかしこの室町殿も実態としては数年間使われただけだった可能性があります。それを物語るように、1547年にはその敷地が売買の対象となっており、1549年には上京町組が成立しています(木下政雄「京都における町組の地域発展」)。そのため森田さんは、この室町殿がかつての花御所旧地の全域を使って築かれたとは考えにくいと言っています。

そうすると、室町殿が実質的に機能していた時期は義満・義教・義政の時代だけで、その時期には大規模な建築・造成がおこなわれたもの、それ以降はほとんど手が入れられることなく、そのため再建された義晴の室町殿も、おそらく町屋によって南方が縮小された敷地利用の基本は、義政期の室町殿に沿ったものだった可能性が考えられます。


調査が進む中庭地区



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