先月(2006年3月)、同志社大学歴史資料館は、今出川キャンパス内で発掘調査を行いました。調査の原因は、ガス関連施設の設置です。設置工事にともないその部分の地下遺構が破壊されるため、事前の記録保存を行うこととなりました。ここでは、発掘調査直後(4月上旬)での成果の速報をお届けします。 調査地点は、烏丸今出川交差点の北東部にあたります〔1〕。京都市教育委員会によって「相国寺旧境内」という名称で周知の遺跡として登録されている地点内です。文献を紐解くと、中世末/戦国期の京都の景観を描いたとされる上杉家本『洛中洛外図屏風』には、「伊勢守」の居宅としての描写がなされている区画にあたります。室町・戦国時代の伊勢氏の屋敷地だったといわれています(黒田紘一郎『中世都市京都の研究』・山田邦和「戦国期上京の復元」『考古学に学ぶ(Ⅱ)』)。また、それより後に描かれた洛中の絵図類をもとにした考察からは、安土桃山時代には町屋へと変貌し、その後江戸時代には公家屋敷地帯の一角となっていたようです(京都市編『京都の歴史4桃山の開花』)。 近接した地点での発掘調査としては、当調査区に東接した位置で1970年代に同志社大学図書館建設に先立つ調査が行われています。ここでは、近世の井戸などの生活遺構が検出されました。また、南接する地点では、地下鉄烏丸線今出川駅の昇降口建設に伴う調査が行われていて、ここでは、近世の遺構群とともにその下層に14世紀の遺物を含む生活層が確認されています。いずれの調査についても、この地点の土地利用変遷の詳細は不明です。しかし、こういった過去の調査からは、調査前からこの地点で中世遺構群がみつかるのではないかと期待されていました。 今回の調査は、面積は80~90㎡と大きくありません。しかし、近世の遺構群だけでなく、15世紀に遡る可能性のある遺構・遺物も検出されました。以下は調査終了時点での調査成果の概略です。もちろんこの後の遺物整理作業によって遺構の評価は変わるかもしれません。暫定的な速報と思って読んでいただければ幸いです。
-江戸時代の遺構-
近世の遺物包含層の下面にあたる第1遺構面では、多数の近世の土坑群が検出されました〔2〕。約80㎡の調査区内に20を超える土坑がひしめく密集状態でしたが、その多くからは江戸時代半ば以後の18~19世紀の土器・陶磁器類が出土しました。また、炭などが層状に堆積した土坑が多数見受けられました。このうちのいくつかからは、金属滓や高熱を受けて発泡した粘土塊などが出土しています。これらは鋳造作業に伴う廃棄物と考えられます。烏丸上立売南西角などにおける本学による発掘調査でも鋳造関連遺物が出土していますが、江戸時代の烏丸今出川地点近くの一角に金属工房があったとも考えられます。近世の絵図にもとづくこれまでの研究では、当地点が寛永年間には公家屋敷となっている様子がうかがえます。公家屋敷内部でこのような鋳造関連遺物が廃棄される可能性があるのか、それとも公家屋敷であったのは一時的でそれ以外の町屋として機能していた時期に行われていた作業の痕跡なのか。今後の遺物整理において、詳細な遺構の時期変遷を明らかにして分析する必要があります。
また、小規模な石組み遺構(土坑1020)なども検出されています〔3〕。食糧貯蔵などに関わる施設が設けられていたこともわかりました。またそれと関連するように、複数の土坑から蜆など貝殻片やイヌの太腿骨と思われる動物骨片も出土しています。このように土坑のうちのいくつかは食料残滓の廃棄のためだったと考えられます。当地点が食糧貯蔵や調理後の残滓の捨て場といった生活に密着した作業の場だったとも考えられます。
-室町時代~戦国時代の遺構-
15~16世紀を中心とする土器包含層である2層下面に相当する第2a、2b遺構面では、南半部に土坑群と、北半部に東西方向の大規模な堀(溝2010)が検出されました〔4・5〕。土坑群は浅く不定形なものも多く、遺構の用途は良くわかりません。
北半部の東西方向の溝2010は、土層断面〔6〕の観察から3度にわたる掘削が行われたことがわかりました。最初に掘削された溝2010cは、深さ約1.8m、北側肩部は調査区外ですが幅推定約5mの規模で、断面形態は逆台形でした。下層には流水堆積による細粒砂層が15cm程度以上の厚さで形成されていました。堀の底に水が流れていたことがわかります。その流土層を掘り込んで2番目の溝2010bが掘削されています。平面規模は不明ですが、深さは1.6m程度でした。礫混じりの同じような質の土で埋まっていて、人為的に埋められたようにみえます。その土層を掘り込んで溝2010aがつくられていました。幅約3.5m、深さ約1.5mの規模で、断面形態は逆台形でした。この溝は、南側から土砂が流れ込んだ状態がみえることから、一度に人為的に埋めたのではなく、南側肩部のベース土や土塁などが崩落して埋積したものと考えられます。
このように溝2010a,b,cの形成過程は、水の流れなどの自然作用で埋まったり、人為的に埋められたりを繰り返しながらも固定した位置に何度も大規模な堀状施設が掘削されていたことを示しています。3時期の遺構からは、多量の土師器片が出土しています。溝2010aについては15~16世紀の土師器皿などがみられましたが、溝2010b,cについては出土遺物の検証がまったくできていません。今後の遺物整理によって、これらの遺構の形成時期・埋積時期を明確にする必要があります。
第2a、2b遺構面の主要遺構の形成された中世後半~戦国期には、京都の上京の様子は上杉家本『洛中洛外図屏風』に詳細に描かれています。先に述べたように、そこには当地点が「伊勢守」の屋敷地として描かれています。このことから、室町幕府の政所執事であった伊勢氏の居宅と考えられています。今回検出された土坑群や堀状遺構は、伊勢氏居宅にあった施設と考えられます。いまのところ発掘調査時の観察が正しければ、15~16世紀の応仁の乱から戦国期にかけての戦乱に関連して溝2010aが掘られていたと考えられます。しかし、溝2010cの形成・埋没時期が14世紀に遡るとすれば最初の堀が作られた原因は違ったものと考えなければなりません。この点が、今後の作業の問題点です。
歴史資料館では、正式な発掘調査報告書作成にむけて遺物整理作業を始めます。出土遺物を入念に検証して遺構形成の時期を特定してはじめて、文献史学との比較ができるようになります。きちんとした成果がでるまで、しばしお待ちください。
1. 調査地点