発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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資料編・室町殿

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年7月9日

室町殿関係の記録を調べています。一部自然災害などの記録も入れてみ ました。引用は『京都の歴史』・『史料 京都の歴史』・森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』1983 山川出版・田坂泰之さんの「室町期京都の都市空間と幕府」『日本史研究』436などです。丸数字 は足利将軍の代数です。(年)は将軍だった年です。
以下はその途中経過ですが、室町殿は、火事や建て替えなどにより、おお むね6期に分けられそうです。
今後も修正や追加をすすめていきます。

 弘安6年(1283):大雨により今出川洪水。海のごとし。
 ①足利尊氏
 ②足利義詮(よしあきら)(1358~1367)
 ③足利義満(1368~1394)

貞治7年(1368)崇光院(1334~98)、義詮より寄進された院御所に移る(ここを「花御所」と号す)。
永和3年(1377)2月:崇光院仙洞御所、焼失。同時に隣接する菊亭(今出川公直邸)と柳原日野大納言宿所(日野忠光邸)、藤中納言宅(日野資康邸)も焼失。
 「後愚昧記」の永和3年(1377)2月18日条によれば、ここはもとは室町季顕の宅地であったが、将軍義詮がこれを得、義詮の死後(1367)、崇光院仙洞御所に寄進されたところという。位置は五辻・今出川・烏丸・室町。北に柳原忠光邸(現在の会館地点?)。



 [第1期室町殿](1378~1431)
永和4年(1378)3月10日:義満、院の御所跡と菊亭跡の両地に北小路亭を造営して移る。「元院御所、去年炎上の後、御造作なきによりて、大樹もうしうけ、これを造営す。日ならずして功を終え、前右大将(今出川)公直菊亭跡、同じこれを混領す」(後愚昧記)。義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
康暦2年(1380)6月:ほぼ完成
永徳元年(1381)3月11日:後円融が行幸。活水池にたたえ、花山庭をめぐり、水面は1町、海山のごとし。透渡殿・回廊・釣殿・寝殿、四足門・楽屋・番所・台盤所・常御所・夜御殿・鴨川の水を入れ、滝をつくる。正面は室町。五辻で分かれる。上御所と下御所。(「永徳行幸記」中門、寝殿、東の廊、常の御所、対屋、透渡殿、釣殿など、寝殿は「三葉四ばのむねどもあたらしくつくられ」、大池は「かも河をせき入れられたれば、たきの岩ねよりも、透渡る殿のしたよりもおちあふ水音」云々と言う。)
永徳2年(1382):相国寺立柱
至徳元年(1385):相国寺仏殿完成
明徳3年(1392):相国寺完成

 ④足利義持(1394~1423):(三条坊門邸御所時代)
応永4年(1397):義満が室町殿から北山殿へ移徒
応永13年(1406):幕府、山城に銭を課して室町第の修理費にあてる。

 ⑤足利義量(よしかず)(1423~1429)
応永32年(1425):今出川以東、富小路以北、万里小路以西、一条以北焼亡。公武の人々室町殿に参籠の折り、大勢馳せ参じ打ち消し。
正長元年(1428):義教、室町殿で音阿弥が演能。

 ⑥足利義教(1429~1441) ・永享元年(1429):室町御所で猿楽。室町第会所上棟。義教移る。
永享2年(1430):室町殿で松拍子。義教、新造会所披露の茶会。



 [第2期室町殿](1431~1441)
永享3年(1431)10月:「全面撤去して再築」。幕府室町北第の造営始め。 義教、室町北小路新第に移る。下御所と上御所。寝殿以下11棟。門6、西に四足門と唐門。東に上土門と小門、北に小門2。上御所は寝殿・常御所・小御所・台屋3・御厨司所・御雑掌所・諸大名出仕在所・会所・観音堂数10棟。上御所の設計図によれば、寝殿と御会所、常御所の間に(東方に)池がある。京都飢饉。伏見・醍醐水没。
 (参考)室町・今出川・烏丸・上立売?(中昔京師地図)。
永享4年(1432):室町第の造作事始め。義教、室町第奥会所に移る。室町第で女猿楽をみる。
永享5年(1433):上柳原焼亡。室町殿に御会所泉殿が新造される。庭園を築く。
永享6年(1434):上御所の池に舟を浮かべる。小池もある。
永享9年(1437):洛中町方の女等、松拍子して室町第に至る。後花園帝行幸。番屋・四足門・中門・諸司御所・寝殿・台盤所・屏中門・北対屋・御船宿・ 御会所・泉殿・新会所。寝殿の棟には瓦。
嘉吉元年(1441):義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺 (のちの勝智院)が造営される。
嘉吉元年(1441):「荒廃したので云々」

 ⑦足利義勝(1441~1443)



 [第3期室町殿](1456~1476)
康正2年(1456):洛中洛外に北小路新第造営棟別銭を課す。義政、北小路新第に移る。
長禄2年(1459):義政、室町第に花亭を造り、立柱上棟をおこなう。義政、室町新第に移る。
長禄3年(1460):烏丸御所を室町殿へ移す。
寛正元年(1460):幕府会所落成。京都地震。幕府泉殿厩立柱上棟。
寛正2年(1461):天下飢饉。京中の死者8万2千人。
寛正4年(1463)12月:室町殿の新造泉殿完成。
 曰く「廊下と庇が重なり合って、多くの殿舎が立ち並ぶ。その中に入れば、迷楼の九曲に遊ぶごとし。土木の工が尽くされている。天子・上皇某殿にあり。-略-南面より山水をみると、青松の土手に花亭をおかれ、画舫が白沙の洲に繋がれ、珍しい花や石がおかれ、さまざまな鳥が飛ぶ。また、東南には兵高さ十余丈の兵櫓が建つ」(碧山日録)
寛正5年(1464):室町第西院落成。後花園院室町殿行幸。
応仁2年(1468):京都両陣合戦止む。今出川殿(足利義視)上洛以後此のごとし。室町殿御内損大略御大事出来すべき歟。今出川殿ご出家の事、細川殿より申し勧。
文明2年(1470):相国寺七重塔焼失
文明5年(1473):日野富子・足利義尚が新造御所に入る。新造御所御門立柱上棟。(室町殿?)
文明8年(1476)11月13日:室町殿焼失(室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋放火。室町殿に至る。西面の四足門より、御殿以下すべて焼失。)皇居は室町殿の北方に移される。室町殿周辺には土倉・酒屋が多かった。焼けたのは室町殿の西北部と思われ、そこに建物がまとまっていたことになる。

 ⑨足利義尚(よしひさ)(1473~1487)(小川御所時代)
文明9年(1477)2月21日:小川御所(後の宝鏡院)に常御殿が上棟される。4月5日:義政徒御す。その後日野冨子の御座所となる。 ・文明10年(1478)12月:諸国に花御所造営のための段銭がかけられる。



 [第4期室町殿](1479~1480)
文明11年(1479)2月13日:室町殿(花御所)御造営御事始め。惣奉行は管領畠山政長、四面築地は畠山・赤松・山名・細川管領が受ける(在盛卿記)。2月13日:裏築地の民屋巷所在家などを撤去(応仁の乱中に陣屋が建っていた場所に形成されたもの(晴富宿禰記)。3月6日:室町殿は東西行40丈、南北行60丈の御地なり。(しかし南方に数多くの町屋があったため)南北40丈に築地を(縮小)仰せつけられる(大乗院寺社雑事記)。南方20丈には小屋共がある。築地の範囲は烏丸・室町・五辻・立売か?。7月2日:北小路行宮が炎上(室町殿の北方に移された皇居が焼失?)(京都御所東山御文庫記録)
文明12年(1480)1月10日:「今日室町殿年始参賀、まず小川に参る。准后(足利嘉政)御所なり、元細川右京大夫勝元遊覧の所。乱中よりご所望にて、時々渡らしめる。花御所炎上以後は不断の御所となす。各々参集し、御対面す。次に宰相中将殿(足利義尚)に参る。(北小路室町なり、元伊勢守貞宗が乱の間宿所とした、花御所炎上以後、ここに御座す)(宣胤卿記)。4月1日:室町東、柳原以南、数百家焼失。室町第・広寿院等類焼(宣胤卿記)。御方御所(義尚)前室町東のつら東西へ一丁焼失。



 [第5期室町殿?](1481~1482)
文明13年(1481)6月5日:室町花御所御作事始め。惣奉行畠山政長。御木屋をたてらる。室町殿(花御所)四方築地を築き始めらる。東方は管領畠山、西面は細川、北方は赤松、南方は一色・武田(長興宿禰記)。
文明13年(1481)10月21日:義政、小川御所から岩倉長谷の聖護院山荘に隠居。

(小川御所時代)
文明14年(1482)2月:東山殿造営開始。5月1日:義尚、小川御所が留守となったため、北小路室町の伊勢貞宗邸から小川御所に移る(長興宿禰記)。
文明17年(1485)8月14日:細川政元、土一揆を屋形前に集め点検す。一揆衆、「花御所跡」に集まる者1000人ばかり(蔭涼軒日録)。
長享元年(1487)9月12日:義尚が小川御所から近江に出陣するときの見物に人々が「花御所舊跡」にあつまる(後法興院記)。11月14日:「花御所」の浅水の大石を伊勢貞宗の指示により人数三百人で運びだす(蔭涼軒日録)。(東山殿へ?)
延徳元年(1489)3月3日:「花の御所の大松」を東府(東山殿)へひかる。人数四五千。

 ⑩足利義尹(よしただ)(1490~1493)(三条坊門高倉御所時代)

 ⑪足利義澄(よしずみ)(1494~1508)
明応5年(1496):室町殿の一角(室町殿敷地のうち艮(東北)角丈数)が公方同朋衆の菊阿弥によって土倉(野洲井宗賀)に売られる。
明応9年(1500):上京大火。1~2万軒が焼失(柳原・土御門・烏丸・室町)。室町殿地点は焼けたか?。祇園会復興。
永正元年(1504):烏丸室町辺りに火あり。
永正4年(1507):室町幕府の実力者、細川政元が殺害される。

 ⑩足利義稙(よしたね)が将軍に返り咲く(1508~1521)
永正5年(1508):代わって細川高国が管領になる
永正18年(1521):足利義晴が上洛して上京岩栖院(室町柳原北)を臨時の御所とする。
大永元年(1521):足利義稙が阿波へ没落

 ⑫足利義晴(1521~1546)(柳原御所時代)(町田家本洛中洛外図では室町西には町屋が並ぶ)
大永5年(1525)4月26日:柳原御所新造普請始め。12月13日:義晴、岩栖院から移る。義稙の三条御所の建物を移す。
大永6年(1526):東卿殿から土倉野洲井宗賀に、室町殿内の敷地が安堵される。
大永7年(1527):細川高国が丹波、阿波勢に敗れる。
享禄4年(1531):細川晴元が細川高国を敗る。
天文元年(1532):細川晴元が洛中法華門徒と山科本願寺を焼く
天文5年(1536):延暦寺と六角氏が洛中法華門徒の寺を攻撃誓願寺、革堂、百万遍が被災(天文法華の乱)。この時室町殿跡は焼けているか?。11月18日:明応5年(1496)に売られた室町殿の敷地の艮(北東)の一部について、大永6年(1526)に確認された件。
天文8年(1539):公方様御築地を細川晴賢が築くの件。誓願寺の再建。北野社の竣工。
天文8年(1539):室町通立売角の材木屋、昼に焼失す。



 [第6期室町殿](1542~1552)
天文11年(1542)閏3月:北小路室町の旧地に室町殿を再建。足利義晴が相国寺から移る。

 ⑬足利義輝(1546~1565)
天文15年(1546):足利義輝11歳、近江にて将軍になる。
天文16年(1547):足利義輝、東山慈照寺で元服。今出川御所に入る。足利義晴、義輝と細川晴元が北白河周辺で合戦。10月18日:「花御所御地上中筋の紺屋乗蓮宅が質物として浄幸の手にわたる(賦引付並徳政方)。(室町殿の一部で町が形成される。)
天文17年(1548):足利義輝、祇園会参会のために慈照寺から今出川御所 へ。

天文18年(1549)6月24日:摂津江口の戦いで三好長慶に敗れ、細川晴元と足利義晴、義輝は近江へ。7月29日:上京立売組成立(三好長慶書状)
天文19年(1550):足利義輝、北白河山中に御殿を伴った城が築くが、三好に攻められ坂本へ退去。義晴死。
天文21年(1552):足利義輝、三好長慶と和して入洛す。「修理」。東山霊山城に入る。
天文21年(1552):「妙顕寺」が「天文の法難」によって使われていた「法花寺」名称を元にもどす。
天文22年(1553):足利義輝、三好に霊山城が攻め落とされ、朽木谷幽閉
弘治3年(1557):上京大火事。近衛殿炎上。
永禄元年(1558):足利義輝と三好長慶が和睦、義輝は相国寺に入る。
永禄2年(1559):二条新邸(本覚寺)造営
永禄3年(1560):近衛御所(烏丸・室町・下立売・近衛)へ移る(近衛御所時代)
永禄4年(1561):『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』に新しく作られた冠木門が記される。
永禄8年(1565):足利義輝、三好・松永に殺される

 ⑭足利義栄(1568)(よしひで)

 ⑮足利義昭(1568~1573)
元亀4年(1573):信長の上京焼き打ち




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