町田 有希
同志社大学 文学部文化史専攻
若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2005年11月8日
大野寺は、大阪府堺市土塔町(旧・和泉国大鳥軍土師郷)に位置する真言宗の寺院で、奈良時代の高僧行基が建立した四十九院の一つです。平安時代の安元元(1175)年に記された『行基年譜』には、神亀4(727)年に建立されたとあります。同寺跡・土塔出土の八葉複弁蓮華紋軒丸瓦にも「神亀四年」と記されており、文献資料・考古資料双方から創建年代が確認されています。
土塔は、大野寺伽藍の南東に造られています。各辺を真東西南北にそろえ、一辺53.1m、高さ8.6m以上、四角錘の頂部を切り取ったような形をしています。家原寺蔵『行基菩薩行状絵伝』(重文・鎌倉時代)には、十三重土塔として描かれています。また、各層の上面及び立ち上がりの部分は瓦で覆われていたようです。瓦で覆われた小さめのピラミッドのような形だったのでしょう。そこに葺かれていたと考えられる、奈良時代を中心とした約1200点もの文字及び絵画等を描いた瓦が出土しています。土塔は修復を繰り返していたようです。1953年に国史跡に指定されました。
土塔そのものは、とても珍しいもので全く同じ構造をとる遺構は全国のどこからも見つかっていません。よく似た遺構に、奈良市高畑に奈良時代の高僧「玄昉」の頭を埋めたと伝えられる「頭塔」という施設が残存していますが、こちらは表面が石積みで飾られています。大野寺の土塔のように表面が瓦で覆われた塔は現存していないのです。
土塔の表面を覆っていた瓦の多くには、人名と思われる文字が彫られています。瓦自体が壊れていて読めないものもたくさんありますが、おそらく土塔を作ったり、大野寺の運営に力を貸したり関わった人たちの名だと考えられています。そこに見える名には大阪平野全域にわたる氏族名がみられ、広い範囲の有力者の力を得てこの寺全体や土塔が建立されていたと考えられます。また、この施設をつくる先頭に立った行基は、多くの寺院建立と連動して各地でため池・橋の造営などさまざまな社会事業を指揮したといわれています。行基という、奈良時代の仏教の一面を表す著名な僧の活動内容やその支持者のありかたを知る上でも重要な遺跡・遺物なのです。
大野寺の土塔は終戦直後の未整備のときにはたくさんの瓦片が散布している状態でした。多くの考古学者・古代史家が散布した遺物を採集していて、さまざまな研究機関にその採集資料は保管されています。同志社大学歴史資料館にも、森浩一名誉教授が採集し、1950年代に研究雑誌に紹介した大野寺の文字瓦が所蔵・展示されています。土塔の建造や修復に力を貸した人々の信仰の様子が、瓦に刻まれた文字から思い描けます。
採集された文字瓦