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浜詰遺跡からみる縄文人の生活

町田 有希
同志社大学 文学部1回生
松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員

最終更新日 2005年2月24日

 新町キャンパスの南側、渓水館にある考古学研究室では、2004年5月から、浜詰遺跡で出土した遺物の整理作業を行っています。浜詰遺跡は、京都府竹野郡網野町にあって、丹後地域を代表する縄文時代の遺跡です。この遺跡は、日本海に注ぐ木津川下流の右岸の台地上に位置しています。海岸から約400mしか離れていません。そのため、遺跡は海岸から吹き寄せられる砂丘に覆われています。

 浜詰遺跡は、過去3回発掘調査されました。
 1回目は昭和33年、同志社大学考古学研究室の故酒詰仲男教授が中心となって行われました。きっかけは、その前年、網野町橘中学校の森善重教論と生徒たちによって、土器などが採取されたことによります。遺跡付近に、近く住宅建築に伴う整地工事の予定があったので、遺跡が破壊される前にと、同町教育委員会主催・同志社大担当により、調査が始まりました。現在私たちが整理作業をしているのは、この昭和34年の発掘作業で出土した遺物です。
 2回目は昭和43年、帝塚山大学考古学研究室が1週間ほど調査を行いました。
 3回目は平成3年、京都府教育委員会指導のもと、網野町教育委員会が主体となって行われました。
 この浜詰遺跡からは、竪穴住居址のほか、縄文土器、動物遺存体、石器、骨角器などが見つかっています。
 竪穴住居址は、昭和34年に発見されたものは、長辺8.3m、短辺5.8mの長方形で、中心よりやや北側に方形石組みの炉があり、主柱穴は4基2列の計8基です。平成3年に発見された住居址は、南北5.2m、東西1.8mの方形または長方形の一角しか検出されていません。この2棟の住居址は、どちらも床面が全面にわたって焼けていました。
 土器は、その遺跡の年代を特定する基準となります。1回目の調査では、縄文時代後期前半のものが大半を占めますが、中期初頭のものも出土しています。3回目の調査では、出土した縄文土器は大量で、中期末葉と後期初頭のものが主体となっています。他に、前期前半、中期前葉、後期前半のものが出土しています。これらの土器の年代から考えて、浜詰遺跡では、縄文時代前期~後期にかけて生活が営まれていたようです。

 ところで、浜詰遺跡の大きな特徴として、動物遺存体が出土していることが挙げられます。動物遺存体とは、主に動物の骨のことを指します。動物遺存体が最もまとまって出土するのが、貝層や貝塚です。貝のアルカリ成分が、動物の骨の腐食を防止するからです。とはいえ貝塚は、主にゴミ捨て場なのですが、集落から離れていることもあります。また、狩りでしとめた動物を、集落の中やその近くで解体したとは限りません。よって、集落の遺跡から必ずしもたくさんの動物遺存体が出土するわけではないのです。
 幸運にも浜詰遺跡では、集落内に良好な貝層が残っていたので、比較的多くの動物遺存体が残っていました。
 動物遺存体からわかることの一つは、当時の人々の食生活です。浜詰遺跡からは、シジミ、カキ、ハマグリ、サルボウなどの貝類、マグロ、サメ、タイ、フグ、コイなどの魚類、イノシシ、シカ、イヌ、イルカ、クジラなどの哺乳類や、鳥類の骨が見つかりました。珍しいカメの骨も出土しました。知ってのとおりフグは毒性が強いので、フグを捕まえた縄文人は、その調理法に熟知していたのだと考えられます。イルカやクジラについても、そう簡単に捕獲することはできなかったはずです。
 その捕獲の道具となったのが、石器や骨角器です。石器では、石錘、磨製石斧、スクレーパー、石鏃などが出土しました。特に多いのは漁撈に使われる石錘です。
 以上のことから、浜詰遺跡は、発達した狩猟・漁労の技術で、海や山の豊富な資源を採取できる、たいへん恵まれた環境にあったと考えられるのではないでしょうか。縄文時代の人々は、自然と共存し、豊かな生活を送っていたのです。(町田)

 浜詰遺跡の出土品をながめていると、丹後地域の海辺に暮らした縄文人の生活がみえてくる気がします。この浜詰遺跡の出土品の一部は、現在本学京田辺キャンパスの歴史資料館本館で展示していますが、これからももっと浜詰遺跡のことをみなさんに知ってもらえるように、整理作業とその研究活動を続けてゆきたいと思います。(松田)


浜詰遺跡からみつかった動物遺存体(シカ、イノシシ、イヌ)

浜詰遺跡からみつかった動物遺存体(魚、クジラ、イルカ、カメなど)





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