収蔵資料と遺跡 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

ホーム >執筆記事 >収蔵資料と遺跡

貝の語る縄文の自然環境

面将道
同志社大学大学院博士課程前期

最終更新日 2010年6月28日

黄島貝塚は、縄文時代早期に営まれた遺跡で、岡山県邑久郡牛窓町(現瀬戸内市)の牛窓港の東南約2.5km、瀬戸内海に浮かぶ周囲約4km の黄島(きじま)という小島に所在します。
1942 年ごろに吉備考古学会の試掘調査をはじめとして、その後、黄島貝塚の発掘調査は盛んに行われ、1964年には、酒詰仲男先生を中心とした、同志社大学考古学研究会と世界救世教秀明教会による合同調査が行われています。この貝塚からは、縄文時代早期(約1万2,000 - 7,000年前)の瀬戸内海を中心とした、広い地域で見られる独特の押型文土器が出土しており、考古学的に非常に重要な遺跡となっています。黄島貝塚は、ハイガイとヤマトシジミを主体とする貝塚で、ハイガイを主体とする上層と、ヤマトシジミを主体とする下層が存在します。この貝たちが、縄文時代について、非常に興味深い事実を教えてくれます。

 ハイガイとヤマトシジミは、両方とも、砂泥質の環境に生息します。ハイガイが、入り江のような湾奥部の干潟に生息するのに対し、ヤマトシジミは、河口部の淡水と海水とが混じりあう汽水域に生息します。この二者の生息域が異なるという事実は、黄島貝塚が営まれていた時期に大きな環境の変化があったことを教えてくれます。

 ヤマトシジミが生息する河口部から、ハイガイが生息する干潟への環境の変化は、縄文時代に起こった、いわゆる「縄文海進」が大きく関わります。「縄文海進」とは、約1,9000年前からはじまった温暖化現象の影響によって、北極や南極の氷が溶けだし、縄文時代の海水面が約6,000年前のピーク時には、現在のそれよりも、3~5m前後上昇した現象のことで、黄島貝塚はまさに、河口部が、海面上昇によって湾奥部の干潟になったことを表しています。

 近年、貝類を対象に行われた放射性炭素分析では、ヤマトシジミは約9000年前に、ハイガイは約8000年前に、黄島貝塚にいた人々によって、利用されていたことがわかりました。この年代は、考古学的な方法で推定される年代と矛盾しません。いつ頃に「縄文海進」という、大きな環境の変化がもたらされたのかということを、出土した貝から知ることができるのです。
 


写真1.黄島貝塚から出土した縄文早期の土器片



ページの先頭に戻る