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墓石から垣間見える都市の姿 ―今出川キャンパスの調査

永野智子
同志社大学歴史資料館 調査員

最終更新日 2009年7月3日

 同志社女子大学図書館地点の発掘調査では、壁面の石材に一石五輪塔が使われている江戸時代の石組の蔵が見つかっています。一石五輪塔は、一つの石材から五輪塔の空・風・火・水・地を作りだした石塔です。中世前半期には、各部分の石を組み上げて五輪塔が作られており、こうした塔を作ることができるのは、僧や在地領主などの一部の富裕な階層に限られていました。しかし、中世後半期になると町衆などが力をつけ、墓石を立てて死者の菩提を弔うことも広く行われるようになっていきます。一石五輪塔は、そうした高まる需要の中で小型ではありますが、量産化できる塔として広まっていったものです。

 「墓石で作られた蔵に入るなんて…」と、現代に生きる我々は訝しがりますが、当時は城の石垣から、踏み石まで、いたるところに墓石が転用されていました。京の街中で大きな石材を数多く仕入れるのは容易いことではありません。ましてや、形の整った石材となると、手間賃もかかったことでしょう。ところが、近所には墓石ではあるけれども、手ごろな石がごろごろしている、これを使わない手はない、といったところであったのでしょう。

 見つかった一石五輪塔には、「キャ、カ、ラ、バ、ア」の種子の下に年号と戒名が刻まれています。年号は、大永7年(1527)から文禄4年(1595)の間におさまります。五輪塔に刻まれる年号は、死んだ時に刻まれるものと、逆修塔として死ぬ前に供養した年号が刻まれる場合がありますが、いずれにせよこれらの塔は16世紀末には墓石としての役目を終えたようです。

 この時期、京都では天下統一をなし得た豊臣秀吉によって京内の大改造が行われ、寺院は寺町へと移されました。中世後半期にこの付近に広がっていた墓地も、この時に整理を余儀なくされ、近世の町並みへと変わっていったのでしょう。この墓石を見るにつけても、京都の中世から近世への移り変わりを垣間見ることができます。

 同志社大学今出川校地は、相国寺旧境内として遺跡名が登録されていますが、古代以来の人々の生活面が重層する都市遺跡にあたります。発掘調査をすると、ひじょうに多くの遺物、遺構がみつかり、遺物の中には農村では出土することのない高級な陶磁器や奢侈品なども出土します。限られた土地で古きものを壊し、新しいものを次々と再生する、こうした動きもまた、今も変わらない都市ならではの風景です。中世に豊かさを誇示するかのように立てられた石塔は、江戸時代にはまた都市民の生活を豊かにするための石材として転用されたのです。


写真1.一石五輪塔転用の蔵(女子大図書館地点)



写真2.一石五輪塔

 引用文献

 同志社大学校地学術調査委員会1976『同志社女子大学図書館建設予定地発掘調査概要(同志社大学校地学術調査委員会調査資料№8)』





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