若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2006年9月6日
京都市中京区蛸薬師通室町付近の姥柳町という場所は、16世紀のヨーロッパ人にも知られた町でした。『耶蘇会士日本通信』(宣教師たちの書簡集)には、京都でイエズス会の布教活動をしたキリスト教会がそこに建てられていたことが記されているからです。オルガンティーノらが中心となり織田信長の庇護のもとに建てられたその会堂は、「南蛮寺」として日本の文献にも記されています。南蛮寺と呼ばれた布教施設は各地に作られたようですが、都のそれは日本での重要な布教拠点だったようです。
1973年、その京都の南蛮寺の一角と考えられる地点でビル建設が行われることになり、建設によって破壊される部分を「姥柳町遺跡」として同志社大学考古学研究室が発掘調査しました。調査によって、中~近世の建物跡や遺物などが多数みつかりました。中でも安土・桃山時代の建物を支えたと思われる礎石が発見され、南蛮寺のものと考えられました。
また、調査後に出土遺物についた泥を水洗している際に、裏に人物が線刻された硯が見つかりました。そこに描かれた人物はいずれも大きな鼻をもち、右下の人物は大きな飾りのついたものを頭にのせ、手に杖を持っています。中央上に描かれた人物は、鍔のついた帽子をかぶり胸にボタンの並んだ衣服を着ています。硯は安土・桃山時代の土器とともに出土していて、16世紀に描かれた絵に間違いありません。16世紀の一般の日本人がボタンのついた服を着ているとは考えられず、これらは西洋人の姿だと思われます。
これが南蛮寺跡から出土したことを考えてみると、右下の人物はミトラ(儀式用の冠)をかぶり牧杖を持った司祭、中央上の人物はその侍者と推定できます。侍者は長い蝋燭消しをもち、その傍らには十字架と葡萄酒を入れたらしい容器が見えています。おそらくミサなどの儀式の様子だと思われます。
屏風絵などに、16世紀に来日したヨーロッパ人の絵が描かれたものは有名ですが、石製品に線刻されたものはほとんどありません。また、儀式の様子を描いていることも注目されます。これを描いたのは日本人でしょうか、それとも来日した宣教師でしょうか。単なる手慰みでしょうか、それとも硯の裏に描くことに特別意味があったのでしょうか。具体的な描写にもかかわらず、その絵自体は謎(ダヴィンチ・コードほどではありませんが・・)を多く含んでいます。もしかしたら、本国で行われている本格的なミサの様子を、日本人に説明したものかもしれません。
礎石は、現在同志社大学今出川キャンパスの図書館前に移築され、自由に見学できます。また、線刻画のある硯は、歴史資料館に常設展示しています。南蛮寺の発掘調査によって、遠い国から来た宣教師たちの営みや厳かなシーンを垣間見ることができます。