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第24回 : 灯明皿

疋田 由香里 同志社大学 文学部文化学科文化学科 二回生

最終更新日 2003年8月5日

 第一従規館の出土遺物にもありますが、日々実測をしていると、口縁部や皿の中心に 向かって煤が付いている土師皿によく出会います。接合の時もパズルの要領で“汚い のシリーズ”として煤付きのパーツを集めては皿の復元を試みるのですが、これがま た上手い具合にくっついてくれちゃったりなんかすると、俄然やる気が出てくるわけ です。煤万歳と。そんなありがたいこの煤は、一体どうして付いたのか?なぜ同じよ うな箇所に付いているのか?という疑問からこの土師皿の用途を先生に聞くと、中に 油を注いで芯を浸し、それに点火して明かりとするための器、つまり灯明皿であると いいます。

 “明かりを灯す”というと、マッチ・蝋燭・ライター・ランプ等のやわらかい、闇 の暗さを背負ったよわい炎がイメージされ、電球や蛍光灯等の“電気をつける”とい う感覚の人工的な光の獲得とは全く別物のようで、人間の持つ“明るさ”の種類が文 明の発達に伴って増えているのを改めて感じます。今回灯明皿との出会いを機に、燃 料の多様化によって明かりが民間に広く普及していく江戸時代を念頭におき、灯火に ついて調べてみました。

 まず火を灯す燃料には、固体・液体・気体のものが考えられます。固体では草木や 炭・蝋があり、油脂分の多い松の根は篝火や松明、囲炉裏の隅に立てる灯火台の上で 使われ、中世には松脂をこねて棒状にした松脂蝋燭が、続松(ついまつ:下に穴がな く、継ぎ足しながら使用する)と呼ばれ重宝されていました。蝋燭は仏教伝来と共に 奈良時代から知られ、蜜蝋(蜜蜂の巣を過熱・圧搾して採取した蝋)製のものもあっ たのですが、高価な輸入品の為庶民の手には入りません。江戸時代には櫨蝋(はぜろ う:櫨の実から採った木蝋)から作る木蝋燭が、明治からはパラフィン(石蝋)を原 料にした西洋蝋燭が出回ることになります。液体の油は、胡麻・荏胡麻・榧(かや) ・椿の実から採ったものが貴族の邸宅や社寺などで古くから用いられていましたが、 これも高価で一般には普及せず、庶民らは犬榧(いぬがや)の種子や魚(鰯等)・鯨 から採った油を使いました。でも魚の油は臭いうえに明るさもかなり微弱だそうで、 それなら暗い方がマシかなぁと思います…。江戸時代からは菜種の伝来と檮押木(し めぎ:物を強く締めつける用具。絞り機。)の発明によって菜種油が広まり、庶民の 暮らしにも明かりが増えていきます。開国後は石油ランプの輸入からガス灯・電灯・ 電球の出現を経て、現在のような眩しすぎるほどの生活空間が出来上がっていくわけ です。

 ここで注目したいのは油を用いる灯火具で、それには「灯心・油・油をためておく 器」があり、これらの組み合わせが基本の形となって様々な灯火具が開発されていき ます。この器こそが灯明皿で、はじめは土器の皿を、後に陶磁器製のものが作られる ようになります。貴重な油を無駄にせぬよう受け皿(同じ大きさで切り込みを入れた 桟を持つもの、脚付きのもの、内部が壺型のもの等)を重ねて上皿から垂れた油を溜 めたり、室町時代には下皿に水を張って灯心の炎を明るく見せたりする等の工夫がな されます。また灯心には細かく裂いた布(麻や綿)・い草の中の白い芯・綿糸等が用 いられ、灯心押さえとセットでも使っていたようです。灯心については明治時代に編 纂された官撰の百科史料事典である『古事類苑』(器用部二十 燈火具上)に詳し く、ミョウバンを水に加えて灯心を煮ておくと油の減りも少なく明るいとか、甲子の 日に灯心を買うと必ずその家が富み栄えるという迷信があったことなど、面白い話が 載せられています。なかでも近衛家熙の言行を山科道案が聞き書きしたという『槐 記』(享保年間に成る。)には、女中が御前にて短檠(たんけい:台に柱が立ててあ り、柱の中途に秉燭(ひょうそく)という、皿の中央に灯心を立てるようにした小型 の灯火具を付けたもの。碗や壷の形をしており、台上には油さしを置く。)に用いる 灯心を何筋にすればよいか尋ねたところ、偶数筋だとただ光が分散するだけなので、 真中に一つ光を残してより明るくなるように奇数筋にするのがよい、と答えた話があ り、なるほどと思いました。丸いケーキにロウソクを立てる時、円周だけに挿すより 真中にも一本あったほうが明るく見えそうだから、多分そういうことだろうと思いま す。なお、灯心の長さの目安を挙げておくと、「長夜一尺六寸、短夜減三寸」と割注 に書かれた史料がありました。大体9~50cmというところでしょうか。そういえ ば以前京都国立美術館で行われていた日本近代美術展に、朱い菊灯台(推定80cm )の描かれた「武人武蔵」という作品が展示されていましたが、その絵では糸のよ うな灯心が恐らく25cmくらい垂れている風に見えました。

 江戸時代の灯火具といえば、和紙や蝋燭の普及に伴って開発された行灯や提灯が代 表的です。中世までの、台状に皿を置いただけの裸の炎を風除けに紙で囲った行灯 は、多少の照度と引き換えにインテリアとしての要素を強めていきます。燭台と蝋燭 に取っ手や紙の覆いを上手く組み合わせて手燭や雪洞が出来、携帯に便利な折りたた める形式の提灯が活躍するのですが、龕灯(強盗提灯)といって、どう傾けても蝋燭 が直立を保つ仕掛けになっている、今日の懐中電灯にあたるものも作られ、発達の著 しさがうかがえます。

 さて。これまでは灯火具について主にみてきましたが、灯明皿に灯された火そのも のの持つ意味についても少し触れておこうと思います。火の用途にも色々考えられま すが、生活に必要な照明や調理等の火力として、寺院での供養や祭り用として、また 焼き物や刀を作ったり狼煙を上げたり、戦にも焼却用にも火が使われます。照明の場 合等はその目的が明確なので、ここでは仏前に灯明をあげたり灯篭流しをしたり、と いう供養における灯について考えてみます。『古事類苑』(宗敎部三十四 佛敎三十 四 法具 燈臺)をみると、「…経典の教えにあるように、燈は命を延ばし、仏の為 に燈を燃やせば死後天眼(神通力によって普通見えないものを見通す能力)を得て冥 界をさまよう事もなく、燈供養は諸幽冥(冥土)を照らし、苦病の衆生はその光明を 蒙り福徳によって皆休息を得る…」というような記述のある史料がありました。仏前 に灯明を捧げるのは、釈迦が入滅の時、弟子や信者に「自分の死後は、自分自身を灯 とし、法を灯として進みなさい」と遺言したことに起因すると言われているそうです が、灯は闇を照らす尊い明かりとして、無常の世に生きる道を照らし出す仏教の教え に譬えられたのです。また己が身をもって闇を照らす姿を菩薩の姿とみて、仏道修行 の心掛けを忘れぬよう戒める為に、灯りをつけるとも考えられているようです。経典 中にも仏塔・仏像・経巻の前に灯を灯すことには大きな功徳があるとして賛嘆されて おり、灯明皿による供養行事が各地の社寺で行われるのもその影響かと思われます。

六月下旬に現場で作業をさせてもらった際、本満寺跡とされる場所から土器溜まりが 出てきました。直径8cm前後の土師器の小皿がまとまって出土していることから、 本満寺で何らかの儀式が行われた際、使用した皿をまとめてこの場所に捨てたのか、 来客用や奉納物として形のそろった皿が複数用意されていたのか、寺との関係を考え させられます。こうして現場で実際に遺物を掘り出していくと、その地に息づいてい た生活を垣間見ることが出来てとても楽しいです。灯明皿について調べてみないかと 先生に声をかけられたのは一ヶ月程前だったので、この土器出しの最中「灯明皿は粘 土を肘に押し当てて成形していた」と事典にあったのを思い出し、もしかしたら肘だ けじゃなく、少し大きいのは膝とか“かかと”とか頭で型取ってたらやだな……こっ ちはアゴっぽい……などと要らぬ心配もしつつ、せこせこ土を掻いていました。

 随分長くなってしまいましたが、今回調べてみて火(炎)についての関心が膨らみ ました。左義長等の火祭り行事や、恐怖・不安・安堵・厳粛さ・儚さ・光明その他時 と場合によって様々な影響を与えられるように、火の奥深さを感じずにいられません でした。


灯のついていた場所はススが・・・ -こよりを乗せてみました-




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