整理室日記 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

ホーム >執筆記事 >整理室日記

300年前の食卓

中川 敦之
同志社大学 文学部三回生
疋田 由香里
同志社大学 文学部二回生
松本 仁美
同志社大学 文学部二回生

最終更新日 2003年4月3日

 今年の3月、今出川校地の埋設管工事に伴い、発掘調査を行ないました。今出川校地の東側、神学館とクラーク館に挟まれた一角に4ヶ所の小さなトレンチを掘るだけの簡単な調査でしたが、興味深い発見がありました。トレンチのひとつ、小さなごみ穴から多数の貝殻(シジミ、アカニシ、アサリ、ハマグリなど)が見つかったのです。そのごみ穴からは他にも、伊万里焼の碗、炭、小動物(鼠?)の骨などが見つかりました。

 出土した貝殻で最もその数が多かったのがセタシジミです。シジミにはヤマトシジミ・マシジミ・セタシジミなどの種類があり、なかでもセタシジミは琵琶湖水系特産種で、シジミ類中で最高級品とされます。1695年(元禄8)人見必大によって著された『本朝食鑑』には、「江州の勢多の橋のあたりで多く採れ、その味は最も厚い」とあり、セタシジミのおいしさは17世紀ごろから認められていたようです。シジミは吸い物・シジミ汁・佃煮などとして食べられたとみられ、脂肪が少なくグリコーゲンが多いため、江戸時代から黄疸によいとされました。1833年(天保4)武井周作著の『魚鑑』には「黄疸には、味噌汁に煮て食ふ。また、煮汁にて、身を洗てよし」と、その効用が述べられています。江戸時代の人々は、おいしく身体にもよいものとしてシジミを食していたのではないでしょうか。出土した貝殻の中には、破片ではありますが、アカニシと思われる貝殻が見つかりました。アカニシは低い円錐形の巻貝で、これも食用とされます。

 また伊万里焼のお碗が見られますが、出土した物は白地に呉須の染付が施してあり、草花の模様が全面に描かれています。その特徴から18世紀代のものと考えられます。 そもそも伊万里焼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際日本に連行された朝鮮人の陶工、李参平によって伝えられ、江戸時代初期に日本で初めて磁器生産がはじまるきっかけにもなりました。実際は有田で焼かれていますが、近くの伊万里港から出荷していたため、「伊万里」の名で呼ばれていました。明治時代以降はやきものを産地名で呼び分けるようになり、有田焼・伊万里焼と区別しています。伊万里焼が一般庶民にも普及し始めるのは1750~1800年代で、それ以降は数もデザインも豊富になり、素朴で庶民的なものも増え、次第に人々の暮らしに馴染んでいきます。きっとこのお碗にもご飯がこんもり、よそってあったのでしょう。 江戸時代のこの場所には相国寺を中心とした門前町が広がっており、商業で栄えた町家の風景のひとつを、今回の試掘調査で知ることができました。大量の貝殻が出てきたこのごみ穴から、今から約300年前の食卓が浮かんできます。蜆の味噌汁が美味しそうです。


セタシジミがいっぱい




ページの先頭に戻る