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埋甕、雲母片そして銭―まじないの可能性

門田 誠一
佛教大学 文学部史学科 助教授

最終更新日 2003年3月18日

 同志社大学学生会館地点の発掘調査で、江戸時代初め頃のものとみられる甕が埋まった状態で発見されました。意図的に埋められた甕は埋甕と呼ばれ、その行為には何らかの目的があると考えられています。甕に遺骸を納めれば、甕棺と呼ばれる柩(ひつぎ)になりますし、銭を入れれば埋蔵銭の容器ということになります。そのほかにも、たとえば、子供の胎盤を埋めた場合は、胞衣壺(えなつぼ)と呼ばれます。胎盤そのものは長い年月の間に腐朽してなくなってしまいますが、胎盤に添えて納められた墨や筆などが見つかることがあります。この場合は、生まれた子供が文字をあやつって、官吏として出世することを祈る親の気持ちが伝わります。

 同志社大学学生会館地点の発掘でみつかった壺も、穴の中に据えられた状態でしたので、人為的に埋められたことは確かです。なんのために埋められたかは、今後の整理作業の中で、明らかにされるでしょうが、気になったことについて、ふれておきます。

 まず、壺の中から銭が出土しているということと、壺が埋められていた穴の中から雲母片が発見されていることが注意されます。お金を埋めることはすでにふれたように、埋蔵銭や場合によっては胞衣壺に入れられることもあります。ただし、銭が入れられた壺が埋められた穴から、雲母が出土するという例はあまり聞きません。

 そもそも雲母は仙人になるための薬、つまり丹薬の一種であることは、西晋から東晋にかけて著された『抱朴子』などにもみられ、比較的よく知られています。ところが、同じく『抱朴子』には銭も丹薬と関係して出てきます。つまり、「還丹という丹薬を銭に塗れば、その日のうちに銭が還ってくる」という内容です。

 壺の年代は16世紀末から17世紀初めとされているので、4世紀初め頃のこのような記述は関係ないと思われるかもしれません。しかし、壺が埋められたのとごくちかい頃の著作物にも、雲母と銭が薬用として記載されています。貝原益軒は『養生訓』などで有名な江戸時代の学者ですが、彼は中国の本草学にも通じており、『大和本草』という薬用物質に関する書物をまとめています。これは中国・明代の本草書である『本草綱目』の分類法に彼独自の分類を加えて、じつに1362種の薬用物質について由来や形状、利用法などについて記載した書です。その中の巻三に「銭」と「雲母」が出てきます。「銭」は「古人が薬方に古文銭を用い、その多くは開元通宝であった」と出てきて、銭の中でも、とくに唐代の開元通宝の薬効にふれています。また、雲母の方は中国の神仙思想の書物を引いて、丹薬と死体保護の効について述べています。『本草綱目』は宝永6年(1709)の刊行なので、年代としては、大学会館出土の壺と同じ頃ですが、この壺を埋めた人物が、本草学に通じていたかどうか、この先は歴史学からは離れた想像の世界に入ってしまいます。しかしながら、雲母と銭というなんのつながりもなさそうなものも、視点を変えてみると、さまざまな検討の要素をもっているということです。まだまだ、他の見方があると思いますが、今回は、雲母と銭から想起される神仙思想書と本草書の記述をあげてみました。今後の検討材料として、鶏肋とでもなれば幸いです。


銭(奥)と雲母(手前)




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