整理室日記 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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「百散」の文字資料

松田 度
同志社大学歴史資料館非常勤嘱託職員
同大学院博士課程後期

最終更新日 2002年12月25日

 年末年始の寒さもなんのその。新町キャンパス地下整理室で実測をする今日この頃。
今回紹介するのは、出土品の整理作業のなかで明らかになった、お正月にぴったりの文字資料です。

 写真中央の素焼きの土器は、新町北別館地点の調査で、私たちが第3トレンチ土坑17と名づけた遺構からみつかったものです。直径9.8cmの蓋で、つまみがついています。何かの容器の蓋と考えることができます。外面には墨で「百散」という文字が書かれています。いっしょにみつかった染付の磁器(蓋と瓶:写真)、桟瓦の破片は18世紀代に位置づけられますが、これは、江戸時代後期(享保15年<1730>の大火以後)の盛土層に、この土坑が掘り込まれていたことと矛盾しません。

 「白散」とは、いったい何なのでしょうか。調べてみると、白散(びゃくさん)は、お正月にその年の健康を願ってのむ薬酒のひとつで、『日本歳時記』には、百散は白朮、桔梗、細辛を各一匁配合するとあります。また『和漢三才図会』造酒類の「屠蘇酒〔付〕百散」には、天皇が元旦の四方拝と歯固めの供を終えた後、典薬頭が屠蘇(とそ)酒と百散を献上し、それを薬子(くすりこ。毒味をする童女)に試させて、それから奉進したとあり、この儀式が嵯峨天皇の弘仁年中(810~824)に初めておこなわれたということが書いてあります。またこの薬種には屠蘇百散のほか度嶂散(とちょうさん)というのがあって、飲み方にも順番があり、まず最初に一献が屠蘇、二献が百散、三献が度嶂散とされています。

 「百散」や「度嶂散」と書かれた容器の蓋は、今回紹介したもののほかに、平安時代後期の鳥羽離宮跡でもみつかっています。文献に記された元旦の儀式は、平安時代の京都で実際におこなわれていたようです。

 となると、今回紹介した新町北別館地点の「百散」は、お正月に行われた儀式に関係すると考えてもよいでしょう。土坑17からみつかった白散の容器の蓋と染付磁器の蓋、瓶は、もしかしたら、お正月の儀式のセットがまとめて廃棄されたものなのではないか、という推測も可能です。

 いったい、18世紀の江戸時代に、だれが、この近くで、そのような儀式をおこなったのか。考えるほど、興味深いことです。

 頭の片隅にとどめておきたいのは、この土坑17の位置する場所が、江戸時代に「桜の御所」とも称された「近衛殿」(五摂家筆頭の近衛家の屋敷)の推定範囲内にあたる、ということです。

 お正月に薬種をのむ、という風習は、平安時代から現代にいたるまで受け継がれているもの。みなさんも新年は、「屠蘇百散」をお忘れなく。


「白散」の拡大です


お正月はこれでお祝い




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