3世紀の岩倉盆地を掘る1| 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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焼け落ちた竪穴住居と「土葺屋根」

若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2005年1月18日

 前回の連載記事で、岩倉での発掘調査で焼け落ちた弥生後期後葉~古墳時代初頭の竪穴住居の跡が検出されていることを報告しました。その住居の様子が、調査の進行とともに明らかになってきました。
 下の写真1は、問題の「竪穴住居1」と呼んでいる遺構の先週末での検出状態です。この写真では、竪穴住居の床面の直上にさまざまな遺物などが散らばっている状況がわかります。住居の角や壁に近いところにたくさんの土器の破片が見つかっています。破片は壷や高杯や甕などが砕けたものと考えられ、床面の直上に水平に面をなして出土しました。床に置いた土器が、そのままの位置で壊れたものと思われます。



写真1 竪穴住居1の床面上に様々な遺物が散らばっている

 その周囲には、土器の少ない部分もふくめて木材が黒く焼けたものの破片がたくさん散らばっています。特に建物の中の壁に近い周辺部に多いようです。よく見ると、多くの炭化した木材片の多くは建物の中心を向いてならんでいるようにみえます(写真2)。炭化木材がこういう並び方で検出されたということは、竪穴住居の屋根に放射状に葺かれた木材がそのまま下へ落ち込んだためと考えられます。  



写真2 焼けた木材が並んで床面にはりついている様子

 また、さらに住居の中央や壁近くには、火を受けて赤く変色した粘土の塊がたくさん散らばっています。場所によっては、焼けた粘土が平たく面をなして固まっています。よくみると、木材と粘土が重なっているところもあり、そういうところでは、炭化材の上に赤い焼土がのっている状態が観察できます(写真3参照)。つまり、焼け落ちる前には屋根材の上は粘土で覆われていて、それが焼けてともに崩れ落ち、このような状態で住居内に埋まったと考えられます。



写真3 黒い炭化材の上に焼けた粘土がはりついている様子

 これまでにも、良好な状態で焼失した竪穴住居跡や火山の火砕流・軽石による埋積をうけた遺跡で、屋根の木材や茅葺の上を粘土で覆ったことがわかる例はいくつかあります。今回の竪穴住居1も同様な屋根構造をもつ住居の検出例と考えられます。一般に遺跡公園やイラストなどで復元され表現される古代以前の竪穴住居や建物は、たいてい茅葺・草葺です。しかし、実際には「土葺屋根」の住居がたくさんあったようです。特に、京都盆地でも岩倉の冬は寒いもの。発掘現場でも先週たくさんの雪が降って、震え上がりました。土葺屋根はそういった気候・環境への適応の結果なのかもしれません。
 考古学で発掘される遺構のほとんどは、地面に掘り込まれたもので、地上に出ていたはずの建物・施設の姿は直接には見えません。今回の調査のように、遺構を検出し、遺構内を埋めた土や遺物を少しずつ掘り下げて詳細に観察することによって、見えない上屋の復元ができる場合があります。細かな調査作業が実を結ぶ瞬間で、発掘調査の楽しみの一つでもあります。




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