松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員
市澤 泰峰
同志社大学文学部文化学科文化史学専攻 4回生
最終更新日 2004年8月12日
北志寮地点の発掘調査が始まって、2週間が過ぎようとしています。今回は、これまでにわかった遺跡の基本層序と、江戸時代の遺構についてお話ししたいと思います。
現在調査をおこなっているのは、調査予定地の南半部です。現在の地表を30cmほり下げると、江戸時代の焼土が混じる堆積層がみえてきます。この下に、やや灰色がかったきめの細かい土が堆積し、上下2つの層に分かれそうです。そしてその下が、地山となる黄灰色の粘土層です。この間、約1.3mの堆積です。それぞれ上から順に、第1層(近・現代の堆積)、第2層(江戸時代の堆積)、第3・4層(江戸時代以前の堆積)、地山となります。
第2層上面の遺構では、江戸時代中期(18世紀代)のゴミ穴や、焼瓦だまりがみつかっています。調査区の南東部分では、東西4.6m以上、南北5.3m以上の範囲内に、幅0.6~0.8mの方形に巡る溝とそこにこぶし大の礫を詰め込んだ遺構がみつかっています。その構造から、蔵の基礎部分である可能性が考えられます。
このほか、調査区の北端部では東西方向にのびる溝がみつかっており、屋敷地を区画するための溝である可能性も考えられます。また調査区の西端では、るつぼの破片とるつぼを据えるための石敷(鋳造溶解炉の基礎か)、その下部の第3層の上面では、安土桃山時代から江戸時代前期(16世紀末~17世紀)の石組み(地下式貯蔵庫)がみつかっています。
これから、江戸時代以前の第4層、地山の調査にはいります。いったいどのような遺構がこの地下に眠っているのか、まだ様相ははっきりしませんが、江戸時代以降のゴミ穴に紛れ込んでいたひとつの軒平瓦がその手がかりとなるかもしれません(松田)。
この瓦には凹面は細かい布目圧痕が残り、凹面には粗い縄目叩きが残されています。胎土は非常に細かいものが使われていますが、極細かい礫を含みます。残っていたのは全体の1/4ほどです。
京都市埋蔵文化財調査センターの梶川敏夫さんによると半截宝相華唐草文の軒平瓦であり、時期は平安時代中期から後期にあたり、緑釉はかからないタイプであるそうです。産地としては丹波産の瓦に同じような文様のものがあるが、製作技法の特徴を考えると讃岐産ではないだろうかということでした。
京都市内では、他に広隆寺や豊楽院跡から同文の瓦が出土しているそうです。この瓦の製作年代とされる平安時代中期から後期には、調査地点のすぐ南側には藤原道長によって1019年から造営された法成寺が存在していたとされています。法成寺の瓦は緑釉瓦であったとされています。今回出土した瓦は緑釉瓦ではありませんが、この法成寺に関係する可能性もあるそうです(市澤)。