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文献史料から見た近衛殿 桜の御所-考察編-

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2004年6月15日

 今回は、先日の「文献史料から見た近衛殿 桜の御所-資料編-」でお伝えしました近衛家の別邸に関わる文献史料をもとにして、近衛殿別邸の実態について考えてみたいと思います。

 前回もお伝えしましたように、通説では永和4年(1378)、室町幕府将軍・足利義満が花の御所の庭に「近衛殿桜の御所」の糸桜を所望したと言われています。また「近衛殿桜御所」で行われた花見の宴の初見と言われるものは、それでさえ『後法興院関白記』(近衛政家・記)の文正元年(1466)のことですが、当時政家が住んでいたのは現・近衛町に位置する近衛家の本宅「近衛殿」であったことから、この「前庭の桜花」は、近衛殿本宅の庭に植えられていたものである可能性が高いのです。

 なお、永和4年(1378)2月条にあらわれる、足利将軍・花の御所に移栽された近衛道嗣がいうところの「この庭前の糸桜小木」も、本宅の庭に植えられていたものではないか、と考えています。近世以降、「桜御所」としてあまりにも有名になったために、「近衛家の邸宅」+「桜」=「近衛殿桜御所」、という見方ができてしまい、「この庭」が「桜御所」の庭であるとされてしまったのではないでしょうか。近衛家に関わる邸宅に「桜」「糸桜」が多くあらわれますが、それは近衛家が庭に桜を植えることを好んだためと解釈することもできるのです*1

 さて、去年の本満寺発掘調査の時にもこの発掘物語をお楽しみいただいている皆さんは、本満寺創建時の伝説を思い出し、ハテナと思われるのではないでしょうか。本満寺は応永17年(1410)、関白・近衛道嗣の長男、日秀が、この地にある父の別宅を得て開いたのではなかったのか?と。
 今いえることは、近衛家別邸の室町時代初期からの存在は、逆に本満寺の寺伝からしか証明できないこと、しかも現在確認できるところでは、この寺伝が江戸時代以降の文献にしかあらわれないということです。現在のところ、本満寺と近衛家の関わりは政家とその父・房嗣の時代に強かったことがわかっていますので、両者の関係は、近衛家別邸を解明することによってその後明らかになる可能性があると言えます。

 とはいえ「資料編」でもお伝えしましたように、近衛家別邸にあたる可能性のある邸宅が、道嗣の時代にまるっきりないというわけではありません。延文4年(1361)頃より近衛道嗣の日記に散見されるようになる「新殿」は、その名称から道嗣の代に創建された邸宅である可能性の高いもので、ここには道嗣の妹や母が住んでいたようです。この「新殿」に出向いた際に、道嗣はほぼ必ず「御影御前」に参っていることから、ここには道嗣の亡くなった父・基嗣(1305~1354)をとむらう何らかの施設があったのかもしれません。
 ただ、残念なことに、この邸宅の所在地は不明なのです。15世紀後半の近衛政家の時代、「御霊殿」と思われる「奥御所」に(前回の「資料編」参照)、当主・政家の母や姉妹が住んでいることが、それより約100年前のこの「新殿」の状況と似ている点は注意すべきですが、それ以上のことははっきりしません。いずれにせよ、この「新殿」の名物は「藤花」であったようですから、例えこの邸宅が新町キャンパスに位置する近衛殿別邸であったとしても、その当時は「桜御所」と呼ばれることはなかったでしょう。

 さて、では実際に、近衛家別邸はどのくらい過去までさかのぼることができるのでしょうか。「資料編」の記事を使って、さらに詳細に検討してみることにしましょう。

 まず、『後法興院関白記』の著者・近衛政家が、応仁・文明の乱(1467~78)終結後に住んだ、「御霊殿(または五霊殿)」と呼ばれる邸宅です。「御霊殿」の名称は、現在新町キャンパスの南をはしる道がそのむかし「御霊の辻子」と呼ばれていたことにちなむのではないか、と考えています。
 「御霊殿」は、まず文明10年(1478)12月26日、歴史に登場するなり炎上してしまいます。この邸宅は、乱中に本宅・近衛殿を失った近衛政家が、帰京した際に宿所としていた邸宅でした。当邸宅炎上後、およそ5年にわたって政家は御霊殿近くにあった家臣・進藤長泰宅に仮住まいを続け(息子・尚通はその進藤宅で元服します)、文明16年(1484)4月8日、ようやく再建のなった「新造亭」に入居します*2
 注目すべきは、その年の10月、「前庭に信乃桜〈十本〉」を植えた、とあることです。近衛家新居では、翌文明17年から多くの貴族を招いての花見の宴を開いていることがみえますから、この十本の「信乃桜」名物となって、後にこの邸宅が「桜御所」と呼ばれることとなったのではないでしょうか。

 さてこの「御霊殿」。もう少しさかのぼることができるかもしれません。応仁・文明の乱直前となる文正2年(3月に元号を応仁に改元/1467年)より散見できる「奥御所」と呼ばれる邸宅がそれです。あくまで推定の域を超えないものではありますが、それには以下の4つの理由があげられます。
 まず1点目が、「奥御所」が当時は「上辺」と呼ばれていた現在の上京にあったということです。
 2点目は、「奥御所」の名称からも推察されるように、まず「奥」の住む御所、つまり近衛家の誰かの妻に当たる人物が住んでいた場所である、ということです。今のところそれは、政家の母に当たる人物ではないかと推定しています。ここには他に「奥御所の姫君」という人物もあらわれることから、政家の姉妹にあたると思われる女性も住んでいたようです。
 3点目に、応仁・文明の乱をはさんで、同じく上辺にあった「端御所」は乱後も何度か政家の日記にあらわれますが、「奥御所」は全く見えなくなることが挙げられます。それは、文明10年に「御霊殿」が炎上してしまったこと、そしてその後に、政家がその地に本宅を構えたからではないかと考えられるのです*3
 最後に、乱によって本宅を失った政家やその父・房嗣が、乱を避けて京を離れた後、折に触れて上洛しなければならない際には、この「奥御所」を宿所として使用していることです。そしてそのことが、文明10年の「御霊殿」の名の初出時の内容において、上洛した政家が「御霊殿」を使用していた、という状況と似ていることも挙げられます。

 現在、それより以前に新町キャンパスの場所に近衛家に関わる邸宅があったことを示す確実な記事は見つけられていません。したがって文献史料上いえることは、この場所の近衛家別邸の成立は、早くとも15世紀後半以降である、ということです。

 文献史料からわかることは今のところここまでです。「近衛殿桜御所」が通説どおり本当に14世紀後半からこの場所にあったとすれば、それにかかわる時代の遺物が地中から発掘されるでしょう。
 真実はいかに。すべては今後の発掘調査の行方にかかっています。

〈補注〉 *1…道嗣の父にあたる基嗣は、若かりし頃「猪熊三位中将」と呼ばれた時期があったようですが、花園上皇がその日記『花園天皇宸記』の元亨3年(1323)3月1日条において、「猪熊三位中将第に向ふ、下車し糸桜を歴覧す」と記しています(同日条には、近衛家と分家して同じく五摂家のひとつとなった鷹司家の邸宅にも、糸桜が植えられていたことが見えます)。花の御所に糸桜をゆずった道嗣自身も、自宅の庭に糸桜を植えていたことは確かですし、15世紀中頃にできたといわれる謡曲『西行桜』では、「近衛殿の糸桜」の美しさがうたわれています。また、政家がその本宅に桜を植えていたことはもちろんですが、「御霊殿」を焼け出され、家臣・進藤長泰家に仮住まいしている時でさえ、その庭に石蔵(岩倉)より贈られた桜二本を植えていたことが日記に記されています。

*2…ちなみに、近衛政家が新造の「五霊殿」に移った2ヵ月後、「五霊殿」と呼ばれる人物が時折政家宅を訪れるようになります。おそらく、政家本宅・五霊殿が「近衛殿」となってすぐ後に、5年の歳月にわたって住み続けるうちに邸宅としての体裁がある程度整えられ、家臣・進藤長泰宅が新たに近衛家の別邸・「五霊殿」ととらえられるようになったのではないか、と考えています。この新たな「五霊殿」は、政家の息子・尚通の代でも、尚通の妹が「御霊殿」と呼ばれているあたり、引き続き近衛家に伝えられていったのではないかと推測されます。

*3…ただし、『後法興院関白記』文明14年(1482)8月7日条に「妙等院の第十三廻追善、来る十三日となすと雖も引き上げ今日本満寺において頓写の事あり、禅閤(政家父・房嗣)并びに余、少将(政家息・尚通)、同姫君達聴問せらる」とあり(8月13日にはほぼ毎年、政家は法要を行い、或いは本満寺へ焼香をあげにいっています)、政家には文明元年(1469)に亡くなっている親族がいることが見えます。この「妙等院」はおそらく政家の母親と考えられ、この「妙等院」なる人物が奥御所に住んでいた人物であったとすると、乱後に「奥御所」が見えなくなったのは、「奥御所」自身が亡くなってしまったからとも言えます。(なお、『後法興院関白記』は文明元年~文明9年のほぼ10年にわたる部分が失われているため、「妙等院」死去時の記事はありません)


新町校舎正門前の近衛家旧邸址の碑





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