発掘物語6 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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この「焼壁」は何なんだ?

松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員

最終更新日 2004年6月12日

 6月の雨空の合間をぬい、発掘調査はすこしづつ進展をみせています。
 臨光館東側の調査区、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての生活面で、興味深い遺構がみつかりました。
それは、江戸時代前半頃の遺構の記録写真を終え、埋められていた備前焼の大がめを取り上げようとしていた時の事です。
 大がめが埋められていた穴の底に、真っ赤な焼土がすこし、顔をのぞかせました。
「もしかしたら火事の痕跡か、竈か、炉跡のようなものかも知れない。」
そこで、この焼土の広がりをもうすこし調べてみることにしました。

 堆積層を掘り下げて行くと、江戸時代以後の遺構にきられている部分が多く断片的にしかわかりませんが、焼土がある範囲におさまることが分かってきました。
 この焼土の遺構は、南北約4.4m、東西は3.5m前後の範囲に広がる焼け面と炭の集中部からなるものです。
南側と東側には赤色化した土壁の立ち上がりがわずかに残っていました。土壁は、外側にむけて徐々に暗灰色となります。これによって土壁の内面に高い温度の火を受けたことは一目瞭然です。特に、この遺構の南側では、厚さ20cm前後の壁体部分が北向きに倒れた状況でみつかっています。
 西側は江戸時代の穴で切られている部分が大半で、北側には壁面らしき痕跡がみあたりません。
焼け面の部分は、もともと黄白色の粘土であったものが、鮮やかな褐色に変色し、硬化しています。ただしほぼ中央北端よりの部分に、円形に火を受けていない径70cm前後の部分がみられ、特にその周囲に炭の集中部が形成されていました。この円形の火を受けていない部分は、焼け面の中央にもみられます。おそらく円形の「柱」のようなものが、この2カ所に立っていたものと考えられます。つまり、北側(推定される近衛家邸宅の方向)に開放部をもつ、焼面をもった「柱」のある遺構、ということになります。
 なお、この焼け面を覆っていた埋土からは、安土桃山時代か、江戸時代でもごく初め頃の土器・陶磁器が出土しています。ふとみると、同じ埋土のなかから、周囲の土壁とは異なる、断面が暗青灰色で低温度の火を受けたことがわかる、粗い胎土の壁のような破片も出土していました。
いったいこの遺構はなんだろう。この壁のような破片は…。

 単なる火事の跡でもない。竈にしては規模が大きいし中央に「柱」があるという構造も不自然、鍛冶炉にともなう製錬の滓も坩堝も金属も出ない。安土桃山時代から江戸時代にかけて、上京という町のなかで必要とされていたこの遺構は何なのか?いろいろと類例をさがしてゆくうち、一つの仮説に行き当たりました。

 安土桃山時代に、「楽焼」とよばれる低温度焼成の焼き物が現在の京都市内で焼き始められたことは有名です。
その当時の窯のようすについては文献や絵図に残るだけですが、いわゆる外窯と内窯とよばれる二重構造をもつ小さな窯で、九州の肥前地域や東海の瀬戸美濃地域にみられる大規模な窯ではありません。現在も楽焼の伝統を受け継いでいる楽家の窯も、径が1m前後の非常に小さなものです。このような小型の窯での操業が、京都の楽焼の最初の頃の姿ではないかと推測されています。
 今回みつかったこの遺構も、それと関連するものだろうか。みつかった粗い胎土の壁片は、方形の外窯に対する内窯の窯壁の一部であるかもしれない、そう考えることもできそうです。もちろん、ゆがんだ楽焼の破片が多量に見つかればこの仮説も立証されるのですが…。

 考古学によって歴史景観を復原する作業を行う場合、このような類例にとぼしい遺構の扱いは非常に難しいものです。それでも、遺跡のなかで遺構をじっくり観察することで、その解決法が得られるというケースも数多くあります。 この遺構の周辺では、同じ生活面上で、一抱えはある焼けた石と粘土溜まりの遺構と炭の集中部が見つかっています。もしかすると関連する遺構なのかもしれません。遺跡のなかで「焼壁」をどう読み解くか。もうすこし調査を進めて、その様相を明らかにしたいと思います。


上から

南から

南側の倒れた壁

北側の床面





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