発掘物語6 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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南北朝の溝と亀山と

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 助教授

最終更新日 2004年6月8日

 臨光館北のトレンチは、その北に建っている尋真館との間をつなぐ地下通路で東西に分けられます。先日このうちの東側トレンチの調査が終了しました。

 土層は地表下約1mの深さまでが近代以降の造成で、安土桃山時代?江戸時代初めの地面が出てきたのは、一部で地山が顔を見せ始めようとする深さでした。

 前回お伝えした臨光館東のトレンチの時も同じでしたが、近代以降の造成が無い部分では、地表下数十センチの深さで江戸時代後期の地面が出てくるのですが、安土桃山時代の地面はそこから1mくらい下がった地山に近いところなのです。そして安土桃山時代から地山まではほとんど土層の堆積が無いのです。

 これはなにを意味するのでしょうか。京都などの都市遺跡の場合、最も多い土層堆積の原因は再開発による造成です。したがって、安土桃山時代の地面を基準にして、それより古い時代の土層が薄く、それ以降の時代の土層が厚いということは、安土桃山時代より前にはこの土地の改変があまりなく、それ以降は激しい土地利用がおこなわれたということになります。安土桃山時代にこの場所でなにがおきたのでしょうか。

 ところでこのトレンチの遺構はいずれも個性派揃いで、面積は狭いのに調査は驚きの連続でした。まずトレンチの東からは南北軸の柱列と幅2m余りの溝のような遺構がみつかりました。埋まった時期は17世紀初めです。一方トレンチのほぼ中央ではたくさんのかわらけ(素焼きの皿)の捨てられた浅い土坑が見つかりました。これは普通の民家では見られない遺構と言われています。時期はおおむね16世紀代です。

 それからトレンチの北端では東西軸の溝が見つかりました。幅は1m、深さは50センチほどで、断面が逆台形の整った形をしています。中から細かく割れた素焼きの皿とやはり細かく割れた瓦質の焼き物が出てきました。また山茶碗の破片も見つかりました。時期は14世紀代です。以上がこのトレンチでみつかった遺構と遺物の全てです。したがってこのトレンチに限定した歴史は、東西の溝で区切られた14世紀の2つの空間から始まり、16世紀にはそれが一つの空間となって素焼きの皿を使った儀式がおこなわれ、しかし17世紀には南北の柱列で区切られた2つの空間に変わったことになります。さらにこの柱列に沿ってみつかった溝状の遺構は、掘りあがってみると、底に長さ3m程の範囲で最深1.7mの深い部分があって、そこを水が動いていた様子もみられるのです。形は特異ですが、あたかも細長い井戸のような印象です。そしてそれがおそらく16世紀代に機能していて、17世紀前半には埋められたことになります。

 もしこの場所が近衛殿別邸であったならば、このような遺跡の変遷は、近衛殿別邸の歴史の何を反映したものなのでしょうか。

 ところで14世紀の溝から見つかった瓦質の焼き物には奇妙な特徴がありました。この焼き物は岡山県の亀山窯とされる製品と共通する特徴を持っていますが、個々の破片の大きさと形が比較的よく似ているのです。また口の部分の破片がひとつも見つかりません。前回のコラムでは信楽焼きの甕の写真を載せましたが、これは破片の大きさも形もまちまちで、部品も底から口の部分までありました。これが、ものが不要になって捨てられた時の素直な姿だと思います。しかし今回の亀山焼きの場合は違います。口の部分の破片が無いのは統計的に許される範囲なのでしょうか。破片の大きさや形が似ているのは素材の特性と埋まった時の事情だけの問題で、偶然なのでしょうか。

 考古学は常に遺跡全体の情報に目を配り、その向こうにいた人間の歴史を考えなければいけません。


かわらけ溜まり

14世紀の溝

亀山焼きの破片

異形の井戸?





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