松田 度
同志社大学歴史資料館調査研究員
最終更新日 2004年5月16日
気まぐれな雨模様に翻弄され、4月から始まった発掘調査も予定よりやや遅れ気味。
でも、手馴れた作業員さんや元気なアルバイト学生に助けられ、なんとか遅れを取り戻しつつ調査を進めているところです。
さて、現在の調査区は、本学新町キャンパスの南にある臨光館の東側と北側の2箇所に分かれています。臨光館が、もとは大正10年(1921)に建てられた日本電池株式会社の社屋だったことは、みなさんご存知でしょうか?この社屋建築時のレンガを含む造成土が、調査に入る前の試し掘りで、地表下1.5m、深いところでは地表下2mの地山にいたるまで、厚く堆積していることが分かりました。
そこで、この造成土を第1層とし、その下部にある、削平されずに残っている江戸時代の生活面から調査を開始することになりました。
今回は、東側の調査区でみつかっている江戸時代の遺構についてお話したいと思います。
臨光館東側の調査区北端部では、江戸時代中ごろの焼土層(第2層)に掘りこまれた浅い柱穴のなかに、その柱をささえる根石がみつかりました。周囲は造成の際の撹乱で削平されていたため、その柱穴がどの方向にのびるのか分かりませんでしたが、すくなくとも江戸時代の桜の御所にかかわる遺構か、あるいはその周辺に住んでいた町屋の一部と想定できるものです。
次に、この焼土の下にある堆積層を第3層として、その上面で遺構の検出をおこないました。
この面では、L字状に掘られた浅い土坑が1基みつかっており、その埋土からは多量の炭と鉱滓、江戸時代初め頃の焼き物が出土しています。鉱滓と多量の炭がみつかっていることもあわせて考えると、江戸時代の初めごろ、桜の御所の南側に、鋳造や鍛冶に関わる職人のちいさな工房があったのではないかと推定されます。これと2002年に調査を実施した新町北別館地点の江戸時代の鋳造工房とをあわせて考えてみると、当時の桜の御所周辺には、金属製品に関わる職人たちが多く住んでいたのかもしれません。
今後、この面の調査を終えた後、堆積層を掘り下げてさらに古い時代の遺構を調査する予定です。江戸時代に桜の御所とよばれていた近衛家の邸宅が、江戸時代以前にどのような姿をしていたのか、すこしでも手がかりを得ることができればなあ…雨雲とブルーシートのかかった発掘現場をにらみつつ、様々に想いを馳せる今日この頃です。