発掘物語6 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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墨書と朱書と近衛殿と

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2004年7月5日

 発掘現場は佳境を迎えています。日々新しい発見がなされる中で、文献方面からの調査も、近衛家の日常を掘り出しています。考古学と文献史学、その両面から、近衛家別邸「御霊殿」の調査は進んでいます。

 西端の調査区・トレンチ4の北端でみつかった異形の井戸、土坑305からは、大小様々のたくさんの土器が出土しています。近衛政家*やその子尚通*、また数代後の信尋*の日記などに、近衛家を訪れる人々が手土産に「土器物」を持ってくることが時折あらわれ、正月の食膳に「豆、青苔を土器に入」れたことなどもみえます*1。また、『本源自性院記』元和7年(1621)正月1日条には、「次いで銚子出づ、白散*2に入る、禁裏においては三献メより白散に入る、当家は初献よりなり、三盃二献後、星の土器を飲む、」と見えます。この「星」は、陰陽道でいうところの属星(その人の一身を支配するとされる星。生涯を支配する本命星と年度によって変わる当年星がある)を意味するのではないかと思われます。具体的なことはわかりませんが、土器を使った正月の簡単な呪術的儀式らしきものがうかがえます。大量に出土している土器の中には、このように使われた土器も含まれていることでしょう。

 土器の中には、裏側に墨で文字が書かれたものもいくつか出土しています。その多くが一~二文字で、書かれた目的や内容がはっきりしないものがほとんどです。今回みつかったものは、「八才」「首」「大也」と比較的多くの文字が書かれていますが、この五文字は所々やや斜めに記されるなど、一息に書かれたものではないようです。このような墨書土器は、一般になんらかの呪術的な意図をこめたものと考えられています。「八才」は年齢、「首」は場所、「大」は症状を示すとも見られ、病気の治療を祈ったまじないの一種を示す可能性があります。

 同じく土坑305からは、中国製青磁の高台部分に、朱書で「景」と記されたものも出土しました(写真参照)。朱書の文字というのは非常に珍しく、書かれているのが当時貴重だった中国製青磁ということもあって、「景」の字を名前に持つ人の所有を意味するものではないかと推測されます。では「景」とはいったい誰なのか。現在、近衛政家の弟に、「景陽軒」と呼ばれる人がいることがわかっています。「景陽軒」は寺院の子院や塔中を意味する言葉と思われますから実名ではありませんが、彼は政家を頻繁に訪れ、また政家他界後もその子尚通とよく往来していたことが二人の日記からうかがえます。「景陽軒」がどの寺院の子院であるのかは今のところ不明ですが、「景」は彼をさしている可能性があります。

 さて、近衛家別邸「御霊殿」です。その後の「御霊殿」について、現在わかっていることを簡単に紹介しましょう。
 文明10年(1478)の火災から約6年の歳月を経て文明16年(1484)に再建され、政家ら近衛家当主の本宅となった御霊殿ですが、16年後の明応9年(1500)7月、再び火災に見舞われます。しかしこの時は約5ヶ月の期間で再建され、その後はしばらく火事にあうこともなく、洛中洛外図屏風・歴史民俗博物館蔵甲本や上杉本に、庭に枝垂桜が目印の「近衛殿」として描かれています。この頃の当主は政家の孫にあたる稙家*や、曾孫・前久*であったでしょう。
 弘治3年(1557)4月、前久邸が火災にあうという記事がでてきます。前久邸はおそらくここ御霊殿であったと思われますが、この火災後しばらく、御霊殿はどうなったかはっきりしない時期が続くことになります。
 というのも、まず、永禄11年(1568)~天正3年(1575)頃、近衛家当主であった前久は当時尾張より京都をうかがっていた織田信長と反目し、京都を出奔していたことがわかっています。天正10年(1582)頃には中世近衛殿*3が再建されている様子もうかがえるのですが、この時前久がどこを拠点としていたかは今のところよくわかっていません(帰洛後は逆に信長と親密な仲になっていた前久は、本能寺の変で信長を失って以後は失意のうちに浜松、奈良などを転々とし、晩年は京都・慈照寺で暮らしたようです)。そして天正年間、近衛家は、江戸時代を通しての本宅となった烏丸通今出川の南東(現在の京都御苑北西隅の場所)へと移住したことが知られています。
 前久の姉で、将軍・足利義輝妻にあたる人物が「御霊殿」と呼ばれているあたり、彼女が「御霊殿」の場所に住んでいた可能性はあるのですが、確定はできません。彼女は天正18年(1590)に亡くなってしまいますが、それ以降は、元和7年(1621)に「近年無人」と記されているような状態であったとも推定されます。
 寛永末年(1643)以降の数年間には、前久の孫・信尋*が隠居後「桜御所」に住んでいたという記述がみえはじめます。「御霊殿」から「桜の御所」への画期はこの頃のようです。
 以上のことは、またあらためて次の機会にお話したいと思います。

 ところで、近衛家別邸「御霊殿」についての創建の由来が、近衛信尋の日記『本源自性院記』元和7年正月1日条に見つかりました。信尋は、近衛信尹の妹と後陽成天皇の間に生まれた皇子でしたが、信尹に嗣子がなかったため近衛家に養子に入った人物です。以下の内容は、継父・信尹より信尋へと語られたものです。

「上古、当家の姫君、将軍家より嫁娶の事強く望み申され、承引し了んぬ、明日渡御有るべきの由決定すの夜、進藤姫君亭に参り、『明日渡御の由珍重なり、武家に於いては対面有るべきの事相計りがたし、今夜対面すべく給ふ』の由強く申す、是非に及ばす対面の沙汰、其の時走り寄り、刀を抜き姫君の髪を截り、申して云く、『当家の姫君をして武家と嫁娶事有るは前代未聞なり、強いて諫め申すと雖も聞こし召さず、依りて此くの如くす』と云々、其の後上京に殿を作り、尼と為し住ましめ給ふ、号して御霊殿なり、今御霊辻 是なり、」(原文は漢文)

 その昔、近衛家の姫君が将軍家より縁談を申し込まれました。姫が将軍家へ渡るのをいよいよ明日にひかえた夜、近衛家僕・進藤某が姫に対面を求め、突然に姫にかけより、刀を抜いて姫の髪をばっさりと切り落としてこういいました。「当家の姫君と武家との縁談など前代未聞である、いくら諌めても聞き届けられないから自分はこんなことをしたのだ」と。髪を切られた姫はその後新たに上京に作られた屋敷に尼として住むことになりました。そして「御霊殿」と号したのです―。

 このドラマチックな物語は、近衛家代々の当主が残した日記をさかのぼって行くと、あながちフィクションではないことがわかってきています。この「御霊殿」創建に関わる物語が一体いつの時代のできごとなのか―。それを探るのも今後の課題といえます。これについても、いずれまたの機会に、お話しすることにいたしましょう。

 そろそろ現地説明会開催の足音も聞こえてきそうな今日この頃。「御霊殿から桜の御所へ―近衛家別邸・近世編」とあわせて、どうぞお楽しみに!

*・・・ 近衛政家以降の近衛家の系譜は以下の通り。
政家 ― 尚通 ― 稙家 ― 前久 ― 信尹 ― 信尋


墨書文字「八才 首 大也」

朱書の文字「景」


*1
『後法興院記』(政家日記)より、「月次和漢会なり、…勧修寺大納言来たる、柳二荷・土器物三種等持ち来たる、」(文明19・2・3)「妙法院僧正来たる、土器物並びに?を持ち来たる、」(延徳4・3・11)、また「今日余、一荷・土器物三種を随身せしむ」(文明17・3・20)や「今日聖門へ二荷・土器物五種随身せしむ」(文明18・正・24)など、他家へ訪れる際に「土器物」を持って行くことも見えます。その他、『後法成寺関白記』(尚通日記)より、「陳外郎、〔以下傍書〕土器物食籠一荷・物香薬五種持ち来る、」(永正6・正・11)、「鷹司父子、以前清水の酒(坂)迎の御返報、二荷二種・土器物三色送らる」(永正8・4・7)、など。
*2
白散とは、新しい年の健康を祈って屠蘇などとともに元日に服用した散薬のことです。
*3
現在の室町通下長者町下ル近衛町にあった邸宅。



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