発掘物語6 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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桜の御所とその周辺(その2)~江戸時代の石敷きと石組みと~

松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員

最終更新日 2004年7月2日

 再び発掘現場からの報告です。
 いま調査をおこなっているのは、本学新町キャンパス中央西よりの部分、数ヶ月前までは駐車場になっていたところです。
 江戸時代前期(17世紀代)の生活面の調査で、興味深い遺構がみつかっています。

 ひとつは、前々回の発掘物語でもすこし紹介した、南北方向にのびる石敷きです。幅は1.2~1.7m、石敷きにそって浅い側溝がはしります。築地塀の基礎である可能性も考えられます。
 もうひとつは南北方向に長軸をもち、その北側に礫敷きをもつ石組みで、地下式の貯蔵庫と考えられます。規模は内法で長軸2.1m、短軸1.65m。深さは現状で1.4mです。花崗岩を6・7段に積み、内壁が平らになるよう加工されています。埋土から出土した土器・陶磁器の年代は17世紀中頃に位置づけられます。
 この貯蔵庫は非常に丁寧に作られており、多量の土師器皿と東海および九州産の陶磁器などが出土しています。

 ここですこし、これらの遺構の関連性を考えてみましょう。
 築地塀とみられる石敷きを境界線と考えるなら、いったい何の境界と考えられるでしょうか?
 江戸時代(寛永年間)の洛中絵図をみると、「近衛殿桜御所」と西側の路地の間に町屋が描かれています。すると、近衛殿桜御所の敷地に接して、その西側が町屋の敷地、ということになります。石組みは、石敷きの東側に位置しているため、いうまでもなく近衛殿桜御所のなかに設けられた施設、ということになるでしょう。

 この貯蔵庫に、町屋の生活とはすこし違う、当時の桜御所での生活ぶりが垣間見れそうです。

 発掘調査は、江戸時代の調査を終えた後、本格的に室町時代の近衛家別邸の調査に入ります。江戸時代以前、どのような人々がこの地を往来していたのか、そしてどのような生活が繰り広げられていたのか…。

 ところで時代はすこし遡りますが、調査区の西側から、東西方向に長軸をもつ楕円形の井戸に似た土坑がみつかりました。規模は長軸が3m、短軸が2m、深さが2.5mです。水が滞留していた痕跡がみられたため、池のような機能を有していた可能性もあります。埋土からは多量の中国陶磁器と国産の陶器、かわらけをはじめとする15世紀後半から16世紀にかけての土器・陶磁器が出土しています。
 その中に、ひとつ目をひくものがありました。これについては次回の発掘物語でお知らせしたいと思います。


異形の井戸?

石敷き(築地塀基礎か)

貯蔵庫





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