町田 有希
同志社大学 文学部 文化学科 文化史学専攻 1回生
竹井 良介
同志社大学 文学部 文化学科 文化史学専攻 2回生
松本 尚子
同志社大学 文学部 文化学科 文化史学専攻 2回生
松田 度
同志社大学 歴史資料館 調査研究員
最終更新日 2004年6月26日
最近、発掘調査の合間に、アルバイトで手伝ってくれている学生達と話をする機会がふえました。
お互いに、現場の風景をみながら、あるいは関連する資料をみながら、それぞれが考えていること、感じていることを話すのですが、これが遺跡のことや発掘の方法を考える際に、役立つときがあります。今回は、そんなこもごもとしたテーマで綴ってみました。
掘ったり(町田)
遺跡へと続く階段を降りると、焼けた真っ赤な土が目に入ってきた。今日は建物の床の上に倒れた焼壁を取り除く作業をした。鉄ベラでその「境目」を狙った!こんなに削っていぃの!?と思った。崩れつつも取れた。先生は「発掘調査は遺跡の一部に手を加えることでもあるから、慎重の上にも慎重に」と言った。
現場に出るってことは、触れるってこと。床の「堅さ」と壁の「柔らかさ」の違いは、やっぱり触ってみないとわからない。
私が立っている大地に、昔何かがあって、誰かがいたんだ。あらためて思った。
そうそう。発掘現場に出て、実際に土にさわってみた人は、本で読むのとは違う歴史感覚をもつことができるのかもしれない(松田)。
考えたり(竹井)
この度発掘している新町キャンパス臨光館付近には、以前近衛家の人々が使用していた「桜の御所」が建っていたとされています。このことは寛永14(1637)年の洛中絵図を見るとわかるのですが、この絵図における「桜の御所」は、とてもおかしな形をしています。凹凸が多く、妙に角角していて、とても普通の屋敷地(建物を含む)には見えません。
これは周りの町屋との関係でこのような形になった可能性を考えました。当時京都では町屋が土地を最大限に利用するために建物が縦長になったりすることがありましたが、この公家屋敷の周辺でもそれが当てはまるのかもしれません。
ところでこの絵図をよく見てみると、「桜の御所」は貼紙の修正がなされた上に描かれており、この絵図作成の間に何らかの改変があったものと思われます。
うーん。この寛永年間前後に屋敷地の改変があったのか、なかったのかという問題を考えながら、遺構のあり方を考えてゆくことも必要ですね(松田)。
掘ったり(松本)
「石敷きが出た!」ということで、私と仲間たちは「石出し」の作業をさせていただきました。この石敷きは、まず大きめの石を並べてから、だんだんと小さい石を上にしきつめていったようです。そのため、小石の残っている部分にも気をつかわなければなりません。
その後、この遺構は南北方向にのびる境界線になりそうだ、と聞きました。いつもなら土と一緒に捨ててしまうような小石にも、人間の意思が働いているということを実感しました。
そんなふうに小石に込められた思いを感じ取ることができれば、立派な歴史家への一歩を踏み出したといえるかも…(この石敷き、詳細は後日お知らせします:松田)。