中川 敦之
同志社大学 文学部 文化学科 文化史学専攻 4回生
最終更新日 2004年6月22日
臨光館地点の発掘調査が始まって2ヶ月が経過しました。これまでに様々な遺構・遺物が発見されていますが、発掘で出土する遺物というと、まずは土師器や陶磁器をイメージされるのではないでしょうか。今回はそういったものではなく、「石」についてご紹介したいと思います。
発掘調査をしていくと、多くの石が姿を現します。井戸の枠組みであったり、地下式貯蔵庫であったり、あるいは柱の基礎(礎石)であったりと、その用途はまちまちです。また、2002年に大学会館(現在の寒梅館)地点の北側で見つかり、現在「記憶の庭」で公開されている石敷きのように、石が敷き詰められた空間が姿を現すこともあります。
今回の発掘調査では、臨光館東側の調査地区で礎石が発見され(「布基礎発見」参照)、臨光館北側・西側の地区では多くの井戸や石組みが発見されています。
そういった石の中に、時として人為的な加工痕が見られる石(石造品)が混ざっていることがあります。石臼や五輪塔、墓石などが石組みの中に組み込まれたり、時には無造作に投棄された状態で見つかることもあります。臨光館東側の調査地区の礎石の中には、灯篭の基壇部分のような石が転用されたものがありました。
石造品が発見されると1つの大きな楽しみが生まれます。それは、石造品に刻まれた文字を探すというものです。刻まれている文字の中でよく見られるものには、年号や人名などがあり、遺跡やその周辺について考える上で重要な資料となります。長い年月を経て、肉眼での確認が困難となっている場合でも、拓本をとることではっきりと読み取ることができます。
臨光館地点から出土したものでは、 臨光館北側の調査地区で見つかった五輪塔の水輪部分にあたると見られる石造品に梵字(報身真言で「ビ」と発音する字体)が確認できました。なお、この石造品は石組みの中に組み込まれたり、投棄されたと見られる状態ではなく、安置されたのではないかと思わされるような状態で見つかりました。
また、臨光館西側の調査地区では、別々の石組みの中にそれぞれ含まれていた石造品が同じ個体である(接合できる)ことが確認できました。その石造品は石塔の笠で、上部に露盤(四角形の台)があります。この笠は約50cm四方の方形で、高さは約27cmあります。露盤部分は約18cm四方の方形で、高さが約5cmあり、中心部に直径約8cm、深さ約5cmのほぞ穴があります。また、裏面には直径約30cm、深さ約13.5cmの大きな窪みがあります。笠の上部に露盤を設けるというのは宝塔や笠塔婆に見られる構造ですが、宝塔の場合には斗型と呼ばれる四角形の台が下部にあります。しかし今回出土した笠には斗型がなく、笠塔婆である可能性が高いように思われます。いずれにせよ、笠部分が50cm四方に及ぶというという大きな石塔であり、そのような石塔が本来どのような場所に建てられていたのか、またなぜそのような石塔が石組みの一部に転用されていたのか、石をめぐる人々の営みが、長い年月を経て私たちに様々な問いかけをしてくれています。
過去に同志社大学の敷地内で行われた発掘調査の中では、1976年の同志社女子大学図書館地点の発掘調査で発見された地下式貯蔵庫の側壁に、20基を超える石塔が転用されていたという事例があり、近年では2003年に行われた第一従規館(現在の渓水館)地点の発掘調査で、井戸の枠組みに転用された一石五輪塔が発見されています。これらの石造品には年号や戒名が刻まれていました。
これらの石造品に共通していることは、もともとは何らかの宗教的な意味合いを持っていたはずのものが、その意味合いを失っているということです。とりわけ、井戸の枠組みや貯蔵庫の側壁への転用というのは、人々が暮らしていく上で必要不可欠なものに積極的に利用する行為と言えます。このような行為からは、当時の人々と現代を生きる私たちの宗教観・信仰心の差異が読み取れるように思います。宗教観・信仰心というものを読み解くのは困難な作業ですが、その分1つ1つの事例を慎重に検証することが大切です。
一見すると地味な印象の石造品ですが、非常に多くのメッセージを投げかけてくれる存在であるとも言えるでしょう。