若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2004年9月10日
9月6日
2006年度開校予定の同志社小学校建設予定に先立って、今週から同志社高校の北グラウンドの試掘調査を始めました。
この地点は、弥生時代後期・古墳時代初頭の土器が出土した「忠在地遺跡」に隣接しています。また、同志社高校ができる以前の地図にみえる田畑の区画をみると、中世にまでさかのぼる可能性がある条里地割が残っていることがわかっています。実際、条理地割を思しきラインに沿って現在でもグランウンドの脇に直線的な土盛(土塁?)が残っているのです。
そこで、予定されている小学校建設に先立って、1×5m程度の規模のいくつか小さな発掘調査区を設けて調査を行うことになりました。今日は、その1日目。地層の状況がどうなっているか全くわからない状態ではじめるのですから、ちょっと緊張です。
地表面から20センチほどの深さまでグランウンドの土(1層)をパワーショベルで掘ると、すこし暗い灰色がかった土(2層)がみえてきました。調査区の端のほうだけ、さらに20センチ掘るとその下に5~10cm大の礫を多量に含んだ層(3層)がでてきました。灰色の土層(2層)からは、土器の細片が少しだけ出土し、中には江戸時代以後のものと考えられる磁器の破片もみられます。どうも2層は江戸時代の耕作土のようです。3層は、河川による流水作用で礫が押し流されてできた層のようで、全く遺物は出土しませんでした。遺構の痕跡も見えませんでした。条里地割に関係する溝でもでればと思ったのですが、残念。今のところ古墳時代初頭・中世いずれの活動痕跡も見つけられませんでした。今日掘った地点は近世の耕作により地盤が削り取られていた可能性が高そうです。
また明日以後も、小さな試掘を繰り返します。何かわかりしだいこのHPで報告します。ご期待ください。
9月7日
今日は、昨日の調査区の30m程度北側を調査しました。1×3mの小さめの調査区です。厚さ10センチ程度のグラウンド整地土(1層)を除去すると、褐色のシルト~極細粒砂層(2層)があり、その下に昨日確認した礫を多量に含んだ層(3層)がありました。2層には全く遺物が含まれませんでしたが、3層の凹み部に堆積していました。凹みは溝状なのか土坑状なのか小さな調査区なので判別がつきません。形成された時代もよくわからない状態です。もしかしたら、条里地割に沿った溝の可能性もありますが、それはもう少し周囲の調査を行わないとはっきりしないようです。
明確な遺構とは断定できませんが、少し可能性のある痕跡が見つかりました。この可能性をみきわめていくのが隣接地点の調査です。確認調査は、遺跡の有無を調べる大事な調査です。小さな調査地点のデータを集積して、遺跡状況のよりよい把握を目指します。
9月8日
グラウンドの北東端に北東―南西方向に長い1×5mの調査区(⑦調査区)をもうけて、掘りました。②調査区と基本層序はかわりませんが、表土から30~40㎝程度下の礫層(3層)中から、古墳時代初頭の土器片が出土しました。やはり、これまで周囲で確認されていた「忠在地遺跡」に関係する遺物が出てきました。出土したのは甕と呼ばれる煮炊き用の土器の破片ですが、底が平底と尖底の中間のような形態をしていました。古墳時代の初め(3世紀のなかばごろ)の「庄内式」と呼ばれる土器はこういった形のものが多くみられます。おそらく、礫層は3世紀ごろに形成されたものと考えられます。
ただし、今回土器がみつかった土層は、流水作用によって礫や砂がたまってできたものと考えられ、土器はありますが生活の痕跡は確認できませんでした。たぶん近接地点に古墳時代初頭の集落(忠在地遺跡の本体部分があって、それが流れ込んできたものと考えられます。これ以後の周囲の確認調査で、この時代の生活層がみつかるかどうかが課題となってきました。