発掘物語4 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第3回 : 文献屋の岩倉探索

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2003年7月29日

 梅雨明けを前に、岩倉の発掘調査は終わりました。
 さほど広いとも言えない調査区域から見事に見つかった条里地割遺構。どんなところにも人の生きた証はあるものだと、あらためて感動させられた2週間でした。今回はそんな調査が行われた岩倉周辺のムカシを、ちょっと探索してみることにしました。

 岩倉の地名の由来ともなっているのが、現在の山住神社にある巨石、磐座イワクラです。この山住神社は、社伝によれば大雲寺が創建された折に鎮守神として現在の岩座神社に遷座しています。神社が人の居住するより近くの地に遷座することはしばしば見られる例ですから、その動きから、当時の「岩倉」の中心地は現在の北岩倉の奥の部分であったのではないかと考えられます。

 岩倉は飛鳥時代から窯業が盛んな土地であったことは前回にもあった通りで、平安時代には大雲寺などの天台宗寺院が相次いで建ち、また室町時代以降は、時の将軍・足利義政をはじめ多くの貴族たちが、洛中からもさほど遠くなく世俗の喧騒を離れることのできる場所として注目し、別宅を構える地となりました。また幕末に岩倉具視がこの地に隠棲していたことは有名ですよね。ちなみに、発掘物語3の「本満寺探索」でしばしば触れた近衛政家の父・房嗣も、宮仕えを退いてからは岩倉に閑居し、この地で亡くなっています。

 さて、前回の発掘物語では「10世紀頃にはこの条里地割が成立していた」と考えられることがわかってきましたが、その条里地割と関わる痕跡が少しわかってきました。

 条里制が敷かれていたことを思わせる一本道のことは発掘物語4の第1回に説明されましたが、この道はきれいに東西方向へ走っているわけではありません。松ヶ崎や上賀茂神社以南に敷かれていた条里制の東西のラインがほぼ真っ直ぐ東西方向に走っているのとは異なり、東へ行くほどやや南に下がっていくという、軸線が東に振った形になっています。ではこの地域の東には、いったい何があったのでしょうか?

 一本道の延長上の少し北よりには現在「三宅八幡宮」があることが発掘物語4第1回に説明されました。まずはこの「三宅」の部分に注目してみましょう。ミヤケを「屯倉」という字に変換してみると、その重要性がはっきりします。屯倉は大和政権が領有する特別な建物や田地がある地域をいい、大化の改新(645)には廃止されましたが、律令制のもとにおかれた地域の行政機関である郡衙も「ミヤケ」と呼ばれ、また荘園を管理するための産業所も「ミヤケ」と呼ばれました。この地域に屯倉や郡衙などがあったという確実な記事はありませんが、古くにこの辺りに政権と関わる施設があった可能性は否定できません。

 また三宅八幡と考えられるものは、江戸時代の半ば頃には現在よりも南東にある高野の蓮花寺の門前に「小祠」として建っていたようです*1。その場所は一本道のほぼ延長上に位置しているのですが、江戸時代より古い資料が見つからず、この地域に条里制が敷かれた10世紀の頃の景観とはあまり関係がなさそうです。
 そこでもう少し目線を西へもって行くと、まさに一本道の延長上にある場所に、「伊多太神社」と呼ばれる式内社*2の旧所在地と推定されるところがあることがわかりました。

 伊多太神社は現在は近くの崇道神社内にまつられており、イタタという名から頭痛などに霊験があるとされている神社ですが、おそらくもとは「イタテ神社」ではなかったかと思われます。イタテ神社は出雲地方を中心として畿内や東国など全国に点在する式内社で、「伊太?」「躬楯」「伊達」などと表記され、祭神が大国主命と国土開発につくした「五十猛命」に比定されることが多い神社です。『崇道神社誌』によればこの神社の神事は「古来よりほぼ出雲系の神社の様式で行われ」たとあることも興味を引きます。

 一説にはこの「伊多太神社」が現在の三宅八幡となったとも言われているようですが、詳しいことはよくわかりません。ただ、推定地ではあれ、条里制を思わせるまっすぐな道路の延長上に式内社があるのは重要であり、「ミヤケ」の地名とあわせて、この地域に条里制が敷かれたことと深い関係があるのではないかと思われます。

 梅雨も明け、本格的な夏がやってきました。夏の到来とともに、歴史資料館では現在建替え中の大学会館の南側で新たに調査がはじまります。
 ではまた、発掘物語5でお会いしましょう!



山住神社



この先に式内社があった


参考文献

  • 『京都市の地名』平凡社、1979
  • 『式内社調査報告』皇学館大学出版部、1976
  • 『史料 京都の歴史8 左京区』、京都市、平凡社、S60、他



*1
現在の位置に三宅八幡が移ってきたのは、18世紀から19世紀前半にかけての頃と考えられています。
*2
平安時代半ば頃、927年(延長5)に完成し、967年(康保4)に施行された『延喜式』という文献の中に掲載される神社を、延喜に載る神、「式内社」といいます



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