発掘物語3 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第9回 : 複弁八弁蓮華文軒丸瓦

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2003年6月6日

 新町キャンパス南の第1従規館地点から平安時代の瓦が出土しました。平安京と中世京都の瓦に詳しい、京都市の梶川敏夫さん・上村和直さん・堀大輔さんにお話をうかがいました。

 瓦の特徴は、中心飾りが中央に1つとその周りに4つの蓮子で、複弁の蓮華文は比較的平面的につくられています。蓮華文の外側(外区)には珠文帯をもたず、かわりに二重の圏線がめぐっています。瓦の周縁は幅が狭く、その側面は内傾するほどに強く削られています。復原される直径は約16㎝で、当時としては一般的な大きさだそうです。
 時代は、これらの特徴から、平安時代中期から後期で、天徳年間(10世紀)の可能性も考えられるそうです。またこの瓦の生産地ですが、京都近郊でつくられたものより粗い土で作られており、文様の特徴は兵庫県三木市にある久留美窯と類似している可能性も考えられるそうです。
 なおこれまで京都市内では淀付近で、この瓦に似た瓦が採集されているそうです(高橋美久二1975「平安京の外港淀津付近採集の古瓦」『京都考古』18号)。
 さてこの瓦ですが、第1従規館地点の南東部で、地山面に掘られた南北方向の溝18の上面からみつかりました。この溝の詳しい説明はまた別にさせていただきますが、この溝は最終的には16世紀前半に埋まったものの、鎌倉時代~南北朝時代と思われる剣頭文の軒平瓦も出土するなど、平安時代から室町時代までの長い期間におよぶ遺物がみられます。
 それではこの瓦がこの場所から出土したことは、どんな意味をもつことになるのでしょうか。二つの考え方ができます。
 ひとつは、平安時代にこの場所にこの瓦を使った建物があったことで、ふたつ目は、中世になって、この瓦を転用して使った建物がこの場所にあったということです。
 言うまでもなく、この場所は平安時代は一条以北の京外です。その点でひとつ目の可能性は大きな問題を含みます。ふたつ目の可能性については、この場所が本満寺跡と推定されている点関係してくる可能性があります。
 調査はまだ全体の半分が終わったところです。慎重に検討をすすめていきたいと思います。

参考文献

  • 兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所1999『久留美・跡部窯跡群』(兵庫県文化財調査報告 第186冊)

追加情報

 この瓦に関係して、宇治市歴史資料館の浜中邦弘さんから貴重なご教示をいただきました。
 2は巴文を主文とする軒丸瓦、3は均整草文軒平瓦です。いずれも文様の残りは良くないのですが、それぞれがもつ断片的なデータから生産地が推測可能です。2は中房に三巴文を配し、その周囲にやや大きめの珠文を巡らすものです。直径は推定 10センチの小型瓦です。粗雑な造りであることなどから、平安京(京都)近郊の瓦窯産であると考えられています。色調は黒灰色です。3は、文様部分は判然としないのですが、凹面と凸面いずれもナデ調整により仕上げられていること等から播磨産であると考えられます。色調は黒灰色です。いずれも12世紀が妥当な年代かと考えられます。
 さてこれらわずかな資料ですが、どのように考えたらいいのでしょうか。平安京変質の現象に注目すべきと思われます。右京が衰退、左京が都市の中心域となり、京外に都市が建設拡大していき、平安京の景観が大きく変貌するのがこの時期です。京外建設の代表が白河・鳥羽です。2・3を葺く建物が寺院施設か貴族の邸宅もしくは別業かは判断が難しいですが、それ相当の建造物が近隣に存在したことは間違いなく、調査地北方に東西道路の毘沙門堂大路が存在することや、調査地東500メートルの同志社同窓会館、幼稚園新築に伴う発掘調査で平安後期の軒瓦が比較的まとまって出土していることなどから、当地一帯の京外北方域においても前述同様の都市的景観が広がっていた可能性は指摘できるのではないかと思います。
 今回のようにたとえわずかな資料であってもそれらが伝える情報は時として重要で、従来の見解にはないものを垣間見させてくれる時があり、今回はまさにそうでした。それはいつも楽しい一時です。
 詳細な事実については、今後の発掘調査やその後の整理過程の中で明らかになっていくものと思われ、今後が楽しみだと感じました。


複弁八弁蓮華文軒丸瓦


巴文軒丸瓦(2)と軒平瓦(3)



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