発掘物語3 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第8回 : 胞衣壺みっつ

斎藤 夏果
同志社大学 神学部神学科三回生

南 真理子
同志社大学 神学部神学科二回生

最終更新日 2003年5月24日

 クラーク記念館の改修工事に伴い、4月3日に行われた立会調査において二つの胞衣壺が出土しました。胞衣壺(えなつぼ)とは、胎児が生まれたのち排出する胞衣(胎盤)を副納品とともに埋納するために用いた容器のことです。
 この日は、私が初めて現場に出た日でした。現場初にして胞衣壺に出会えた私は、かなりラッキーだったと思います。はじめはただの土器だと思っていたものが、実は胎盤を入れるための壺だと知った時は、正直言うとそれまで大切に持っていた壺を放り出しそうになりました。しかし、発掘を終えて新町校舎にある発掘整理室まで移動する間に少しずつ興味がわき、少し調べてみることにしました。

 胞衣という言葉は、“お宮参り”の赤ん坊に産着の上から着せてやる「胞衣着」の名と共に親しまれたものでしたが、今日ではすでに遠い言葉となってしまっています。桶や甕・どびん・焙烙(ほうらく)などの素焼きの土器が用いられ、刻印・墨書のほどこされている例もあり、衛生上の理由から明治時代には胞衣を埋納することが禁止されたそうですが、1945年(昭和20)くらいまでは瀬戸物屋などで販売していたといいます。
 胞衣は生児の分身と考えられていたため、胞衣壺を埋め込む民俗は各地に分布し、分身の霊魂を鎮めるなど様々な行為があります。埋納場所・方角・副納品は各地によって異なりますが、埋納の場所は、人のよく踏む場所と踏まない場所という、まったく違う二例があります。副納品は、男の子は筆・墨・銭で、女の子は針・糸・銭とされ、どちらも子に才能が授かるようにという親の願いが込められています。また、おもしろい事例としては、サイコロを添えて埋納する(福岡県)というのがあり、そうすれば子どもが賭博をやらなくなるという俗信からくるものだそうです。

 我が子の成長を思う気持ちの強さを感じ、これからは民間信仰・俗信という点からも、自分の専門を生かし、神学的にも調べてみたいと思いました。

 そして、そんな胞衣壺の一種かと思われるものが、今回の発掘地点からも出土しました。
 4月14日のことです。いつものように先生の指示に従い、壁を掻き、床面に落ちた土を掃除している時に、私はそれを見つけました。きれいに掃除したはずのその地面には、一ミリほどの細い線で、土師器色の弧が描かれていました。始めは何か土の粒が引っ掛かって、地面に線を描いてしまったのかなとも思ったのですが、その上を何度かそっと削ってみても消えそうにないので、念のためにと私は先生を呼んだのでした。

 「これは焙烙かもしれないね」と、その線を見て先生は言いました。その線の内側の土をそっと除いていくと、どうも小さな薄いかけらがたくさん顔を覗かせているようなのでした。私は、竹べらを使って注意深く土を除いていきました。それは、何だか終わりのない作業のようにも思えましたが、土の下からどんどんと顔を見せ始めるほうろくのたくさんの小さくて薄いかけらを見ていると、何だか私にはそれがすてきな宝物のように思えました。

 ほぼ全ての土を取り除き終わると、丸い焙烙の真ん中には一本の小さな段差が走っており、まるで真二つに割れたようになっていました。その段差をはさむようにして、石と土人形の首が対になるように置かれており、先生は「据えられたままの形で出ているから、この焙烙は胞衣壺として使われた物かもしれない」とおっしゃいました。焙烙の中につまっていた土は大切に包んでおき、分析に回すことになりました。
 分析の結果がまだ出ていないため、この見つけた宝物が結局なんだったのかはまだわからないままです。早く答えが知りたいと思いながらも、何だか秘密のままでしまっておきたいような気持ちもする、そんなある日の発見でした。

 第1従規館のものはまだはっきりしていないものの、クラーク記念館の他にも、胞衣壺は新町別館地点や大学会館地点の発掘でも出土しています。現在の私たちにとってはこの胞衣壺を埋めるという習慣を身近に感じることはできませんが、昔の人々にとっては、子どもの誕生とともに行われた、ごくありふれた日常の風景であったことを知ることができました。


クラーク館の胞衣壺


第1従規館地点の胞衣壺



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