発掘物語3 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第7回 : 地底探検

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2003年5月20日

 国の重用文化財としても有名な同志社大学のクラーク館では、現在その保存修理が進められています。 先日その基礎の構造と状態を確かめるために、建物の南側と東側の一部で地表下約1mまでの小さな試掘調査がおこなわれました。

 このうち東側の調査区でみつかったのが写真の石列です。掘った場所はクラーク館の基礎の内側で、真っ暗な床下にもぐりこんで、頭を床の梁にぶつけないように、這うようにして基礎の間に空けられた穴をくぐり抜けていくと、工事用照明の薄明かりの中に、南北方向に並んだ石列がうかびあがっていました。 石列は東側に面をそろえ、その東の地面が平らでみだれていないため、この石列の東が外で、西にあった家の縁石のような役割を果たしていたものと思われます。 時期は出土した素焼きの土器から、江戸時代の初め頃と思われます。

 クラーク館が建てられる前のこの場所の周辺は、幕末が薩摩藩邸で、江戸時代には相国寺門前の町屋が並んでいたと考えられていますが、いずれもその詳細はよくわかっていません。今回の調査はそのひとつの起点を決めることになったと思います。またひとつ、上京のジグソーパズルの穴を埋めることができました。

 ところで、新町キャンパスの調査を進める中で、同志社大学のもっている歴史の深さを、またひとつ気づかされました。これまでお知らせしてきましたように、新町キャンパスは平安時代以来の名家である近衛家と深い関係にあったことが知られています。しかし同志社と近衛家との関係は新町キャンパスだけではなく、実は歴史資料館本館の所在する京田辺キャンパスにもあったのです。それがどれほど深いものか。それはまた後日あらためてお話しさせていただきたいと思います。


薩摩藩邸のなごりと伝える井戸跡


クラーク館地下の石列


臼についての余談

 今年は長野県長野市に所在する善光寺の御開帳の年でしたが、この善光寺縁起は、本田善光が難波の堀江から迎えた一光三尊阿弥陀如来の本尊を、最初臼の上に安置したと伝えています。

 日本書紀によれば、応神天皇がその十九年に吉野へ行幸したとき、橿の林でつくった横臼で醸した御酒を供されています。 国内で最古とされる石臼は、大宰府の観世音寺講堂前にある碾磑(てんがい)ですが、石臼が一般に普及するのは室町時代に入ってからで、戦国時代以降の遺跡からは、割れた石臼がよく見つかります。 本来非常に割りにくい石臼のほとんどが割れているということは、故意に割られた可能性が強いことになりますが、民俗事例によれば、古い臼を処分する場合には7つに割って、7軒にわける風習がみられたとされています。また正月などには神座とされ、石臼や搗き臼に連弁を彫ることもあるそうです。 機能としての挽臼と搗臼の違いはありますが、古代から臼には日常道具以上の意味も込められていたようです。




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