渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員
最終更新日 2003年5月14日
こんにちは!文献屋です。
発掘調査は現在、調査地点東側全体の南半分で、室町時代頃の遺構まで掘り進められています。日々くりひろげられる発掘風景の中でも、数百年前に整地のため溝に埋められ、現在まで乾くことなく水を含んでいた土が目の前に掘り上げられる光景などを見ていると、じわじわとした感動を覚えてきます。
さて、本満寺です。文献方面では本満寺探索はやや混乱の様相を呈しています。
江戸時代に書かれた文献における本満寺の寺伝によれば、寺は天文法華の乱(天文5年/1536)の時に焼き討たれた後、天文8年に近衛尚通(前回の「本満寺探索」で『後法興院記』を書いた政家の子)により現在の寺町通鶴山町に移転したとされています。しかしながら山科言継が書き残した日記『言継卿記』の天文14年6月10日条には、本満寺はこの時「近衛殿近所」にあったと出てきますから、寺の移転の記述については寺伝は誤りを含んでいると言えます。
現在の寺地へは、豊臣(羽柴)秀吉が天正年間(1573~1591)末頃に京都の多くの寺院を現在の寺町に移動させるのですが、その時に本満寺も移転したと考えるのが正しいと考えられます。
ではこの「近衛殿近所」とはどこをさすのでしょうか。これについては、3つの推測ができることがわかってきました。
1つめは江戸時代に応仁の頃(本満寺創建時)を回顧して描かれた「中古京師内外地図」に「本マン寺」と描かれる場所である、近衛殿の東向かい、現在の同志社大学新町校舎の東向かいにある三時知恩寺の辺りです。
2つめが、近衛殿の南、つまり現在の発掘地点です。そうすると、法華の乱で焼亡した後に本満寺は元の場所に再建されたことになります。
3つめが、天文年間(1532~1554)終わり頃、つまり法華の乱以後の復興した京都を描いているという上杉家本洛中洛外図屏風に、本満寺が描かれているのですが、それにおいては近衛殿南隣ではなく、一条小川付近という、ずいぶん南に描かれています。
この3つのうちのどれかが、「近衛殿近所」とされる本満寺の再建された位置であると考えられます。
洛中洛外図には、法華16ヶ寺総本山(室町時代は21ヶ寺でしたが法華の乱後16ヶ寺に減少)のうち、本満寺を含め6つの寺が描かれていますが、その場所は全て、乱後に再興され、秀吉による京都整理事業による大幅な寺院の移動以前の位置に描かれています。そのことから、乱後に本満寺が再興された場所は、現在の発掘地点ではなく一条小川の位置であった可能性があるとも考えられます(「法華16ヶ寺総本山移転情況一覧」参照)。
この謎は、本満寺を再建したと言われる近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』、本満寺再建後当寺を祈願所としたとされる後奈良天皇の日記『後奈良天皇宸記』を見ることによって、解くことができるかもしれません。
次回の文献屋は、そんな本満寺の北側にあったとされる「近衛殿」について書きたいと思います。乞うご期待!
*参考文献*