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外伝第2回 : 文献屋の本満寺探索・最終回

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2004年1月21日

 こんにちは、文献屋です。
 vol.4から半年の沈黙を超えて、本満寺探索も、今日でついに最終回です(発掘物語3、「文献屋の本満寺探索」1~4参照)。


 さて、本満寺です。
 室町時代も後半頃、同志社大学新町校舎の辺りの近衛殿、別名・桜の御所を本宅としていた近衛政家とその息子・尚通ですが、彼ら二人の日記を詳しく読んでいくと、それぞれ本満寺に対して違った接し方をしていることがわかってきました。

 父・政家は、以前にもお話しましたように、本満寺において父や姉、妻の毎年の法要を行い、時には「焼香」をあげに行ったり、また毎年10月12日の御影講には必ず寺へ参詣していました。「大飲」してしまった後に茶を所望しに寄ったり、家族揃って寺の藤の花をめでにいったりと、近衛家と本満寺が非常に親しい関係を持っていたことがわかります。本満寺側も、住持は折々に近衛家を訪れ、また年末年始には必ずあいさつにやってきていました。政家は熱心に法華宗を信仰し、本満寺以外にも様々な法華宗寺院へ参詣をくり返していましたが、特に本満寺は、政家にとって近衛家の菩提寺のような、またはそれ以上の特別な存在であったようです。

 ところが、それに対して息子・尚通は、父・政家の死後(永正2年/1505)、永正3年(1506)~9年(1512)の間では、父とは違いほとんど本満寺を訪れることはありません。本満寺側が年始・歳末の挨拶、寺僧のもめごとについての調停などに尚通のもとを訪れることはあっても、尚通は父の死の翌年と3回忌、7回忌などは本満寺にて法要を行なうものの(葬儀は政家がその父・房嗣の死に際した時もそうであったように、東福寺・海蔵院にて行なわれました)、母・等心院の法要も含め本満寺で行なうことはありませんでした。また、その他の法華宗寺院に参詣することさえ、二、三度ある程度でした。

 ただ、永正3年正月24日、近衛殿の向かいにある入江御所でボヤ騒動があったさいに、近衛家と親族関係にある人々が尚通のもとに見舞いにやってくるのですが、その中に本満寺の名前が入っていることは注意をひきます。このことは、この寺の住職が近衛家の縁者であった可能性が考えられます。二人の本満寺に対する態度の違いは、その時の経済状態の違い、法華宗に対する信仰の度合いの違いなどが考えられるとともに、血縁関係という観点からも、政家とは濃いつながりでも、子の尚通には遠いものだったのかもしれません。

 また、京都の法華宗21ヶ寺総本山が焼き打たれた天文法華の乱(1536)は、ちょうど尚通の在世中で、上杉本洛中洛外図屏風においての本満寺は、再建後と考えられる姿は一条小川のあたりに見えています。なおかつ寺伝のひとつにおいては本満寺の寺町での再建は尚通によるとされています。いずれにせよ寺が元の場所である近衛殿の南隣に再建されなかったことには、尚通という人と何か関係があるのかもしれません。


 本満寺についての探索はひとまずここで終わり。けれど、京都の昔、上京の昔をお伝えできるよう、文献屋のさらなる探索は続きます。

 それでは皆さん、次回の文献屋シリーズをお楽しみに!


本満寺推定地(手前) と近衛殿(奥)



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