発掘物語3 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第20回 : 文献屋の本満寺探索 vol.4

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2003年7月8日

 こんにちは!文献屋です。
 4月から約3ヶ月にわたって行われた第1従規館地点の発掘調査も、7月2日をもちまして無事に終了しました。文献屋にとっての初めての発掘現場は、雨あり酷暑あり笑いあり涙ありの怒涛のような毎日の後、静かなフィナーレを迎えたのでした。

 今回の文献屋の探索は、これまでも何度も登場してきている近衛政家が書いた日記『後法興院記』から、本満寺にあったと思われる建物について少し紹介したいと思います。

 まずは「本堂」です。法会が行われる場所として、また参詣の対象として現れます。文明18年(1486)10月に本満寺の本堂が「近日建立」されるとありますが、同じ年の3月にも本満寺の先師日燈上人の33回忌の法事が「本堂」であったことが見えますから、10月のこの記事は本堂をこれまでよりも大規模に改築したのか、半年の間に本堂が何らかの損傷を受けることが起こったために再建されたかのどちらかでしょう。

 続いて、「教林坊」「住持坊」「大坊」と見えるものです。これらがすべて別々の坊舎を意味するものかどうかははっきりしません。ただ、教林坊は「住持と謁す」るためによく使われており、石蔵(現在の岩倉)に住んでいた政家の父や「姫君」*1達が、本満寺での法会に備えて前日より逗留する際の宿所としても使われていることから、「住持坊」と「教林坊」は別々の坊舎であったと考えてよいかと思われます。明応3年(1493)4月12日条に、「一昨夜教林死去す、不便不便(現在の不憫の意か)」と見えるのは、教林坊に住した僧を指すのでしょうか。教林坊はもっとも頻出する坊で、法談を聞いた後や法会の後のちょっとした酒宴や食事のために使われたようですが、「教林」が亡くなった後は、法会後の酒宴は主に「聴聞所」と言われる場所で行われるようになります*2。「局」と書かれる場所も、同じく法会の後の酒宴や食事の場として登場します。

 明応8年(1498)年ごろから見え始めるのが、「三十番神」と「十羅刹堂」と呼ばれる建物です。「三十番神」とは、一ヶ月30日間、三十人の神が毎日交替して守護するとされるもので、天地擁護や王城守護など10種類あり、その中に法華経守護の三十番神というものがあるそうです。本満寺はご存知のとおり法華宗の寺院ですから、法華経守護を目的とした三十番神が境内にまつられていたのでしょう。二堂とも、ほぼ毎年のように政家の参詣を受けています。

 本満寺内の堂宇ではありませんが、発掘現場である第1従規館地点が「本満寺構え跡」遺跡と呼ばれることとなった由来となる「構え」(防御施設)のことを指すと考えられるものも、『後法興院記』は書き残しています。それが明応8年(1498)9月16日条の「本満寺に詣る。物?(騒)により要害有り。仍(よ)りて門前に輿を立て念誦せしむ」とあるものです。はっきりしたことはまだわかりませんが、この年は京中が土一揆などで不穏な空気に包まれていたらしく、同じく『後法興院記』の同年10月10日条に室町幕府管領の細川政元*3が、鷹司から堀川に至る禁裏守護のための要害の濠を築かせたと見え、これは本満寺が要害を築いたのと同じ動機ではないかと考えられます。

 発掘現場が限られていたことから、調査地点でははっきりとした痕跡は結局見つかりませんでしたが、以上、本満寺には「本堂」「教林坊」「住持坊」「大坊」「聴聞所」「局」「三十番神」「十羅刹堂」といった少なくとも八つの堂宇があって、それが現在の元本満寺町にひしめていたことになります。(「本満寺建造物関係記事一覧」はこちら)

 加えて、明応7年(1497)4月5日条に、政家が本満寺に「藤花」を見に行ったという記事があります。毎年春には美しい紫の藤棚が花開いていたことでしょうね。

 発掘調査は終わっても、整理作業はこれから。そして、文献屋の本満寺探索も、まだまだ続きます。

 それではまた、整理室日記でお会いしましょう!


調査終了、ハイチーズ! (クリックすると拡大します 約315KByte)


*1
政家の娘か、政家の妹のどちらを指すかははっきりしない。
*2
「教林」の死の4年後、一度だけ「教林坊」にて住持に謁したことが見える。
*3
この時は管領職にあったことは確認できないが、政元は実質的に管領に相当する位置を占めたと考えられる細川氏の本宗家の家督。



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