鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2003年6月17日
今回の調査地点の中で、最も南の8トレンチから、比較的良好な状態で江戸時代中ごろの生活面がでてきました。現在みつかっている遺構は、南から東西方向の石列、井戸、石組の地下蔵などです。
「史料京都の歴史」付属の地図によると、今回の調査地点の南部は、「元本満寺町」と呼ばれる、南北ほぼ1町、東西半町ほどの町のほぼ北半分にあたります。8トレンチは、その中でもちょうどこの町の中央を東西にはしる「本満寺辻子」(今出川通りを一筋北にあがった小路)に南面して並んでいた町屋群の一角と重なる位置になります。
なお記録によれば、「元本満寺町」は、寛永14年(1637)の洛中絵図で「本満寺丁」、元禄末年の洛中絵図で「本満寺辻子」とみえ、明治維新前には上古京上中筋組に属した枝町で、11軒役が負担されていたそうです。
さて、それでは遺跡をよく見てみましょう。井戸は10基以上みられ、そのほとんどが石組みで、ちょうどトレンチの西壁と東壁にそったかたちでならんでいます。ただしこれらの井戸はすべて同時期にあったわけではなく、石組みのすきまを漆喰でつないだものもあり、江戸時代から明治時代にかけて何度も位置を変えて掘られていた結果であることがわかります。
次に石列の周辺は赤く焼けた土がひろがっています。焼け土の広がりは、この石列の周辺に偏っています。これは建物があった場所を示すものと思います。
それから、その石列の西から二つの長方形の穴がL形に配置されたような形でみつかりました。両方ともに、焼け土の堆積の下のあって、中にたくさんの瓦と焼け土を含みます。そしてこのうちのひとつの穴には、その内側に黄色い粘土が貼ってありました。
それからこのふたつの穴のすぐ北側から、石組みの地下蔵がみつかりました。
さてよく知られているように、京の町家は、表口が狭く奥行きの長い敷地を特徴としています。その内部の配置はさまざまですが、寛政・文化・宝暦の年号をもつ美濃屋町(高瀬川筋松原上ル)の町家古図をみれば(中村昌生1971『京の町家』)、表口3間半、3間、5間で奥行15間の敷地に、片側に土間をもち、片側に表から居室・座敷と部屋を並べた姿などをみることができます。なおこの家の場合、井戸は敷地のほぼ中央に描かれているため、通りからの距離は、約14メートルになります。
それでは今回の8トレンチはどうでしょう。ひとつの解釈としては、東壁沿いの井戸群と西壁沿いの井戸群の間隔がおよそ3間なので、これらの井戸は、町屋の表口の平均離隔距離にあって、それぞれがそれぞれの町屋の土間部分にあたっていた。井戸はその時代による移り変わりである、といった見方ができるかもできるかもしれません。
ところで石組みの地下蔵に近い西壁沿いのあたりから、金属などを熔かすときの坩堝がでてきました。もちろんこれは一般の町屋に伴うものではありません。
そこで思い起こすと、壁に粘土を貼った穴も普通のゴミ穴とは考えられないのです。つまり、8トレンチの遺構群は、普通の民家ではなく、なにかの職人さんの工房も兼ねていた家の可能性が考えられるのです。時代は溯りますが、いわゆる鋳造遺跡に粘土を貼った穴が伴う事例も知られています。
井戸の配置については、この視点もふまえて考えてみたいと思います。
すでに新町北別館や大学会館地点で、江戸時代の上京が金属関係の職人さんたちの町でもあったことを明らかにしてきました。ここにも同じような風景がひろがっていたのでしょうか。