鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2003年6月13日
3トレンチの溝21から特徴的なデザインをもった瓦がみつかりました。瓦の種類は軒先を飾る丸瓦で、周縁が完全に失われているため正確な直径はわかりませんが、下に述べるような類例から推測すると12センチほどの大きさとなります。表面の文様は、直径3センチの中央(中房)に「卍」字をおいて、そのまわりに立体感のある複弁の蓮華文を配し、さらにその外側に12の珠文をおいたものです。なお、珠文の外側の圏線の直径は8.3センチです。また裏側には指紋とともに指で押さえつけた跡が明瞭に残っています。
山崎信二さんによれば、同様な文様を持った瓦は、これまで常盤仲ノ町遺跡・法勝寺・平安京左京三条三坊十一町・左京七条三坊五町・左京八条三坊・播磨円教寺・臨川寺などみつかっており、今回見つかった瓦は、その中でもとくに瓦当直径が小型のAグループにあたる常盤仲ノ町遺跡出土の瓦が似た特徴をもっていると思われます(『中世瓦の研究』2000奈良国立文化財研究所)。→「卍瓦集成表」はこちら。
次にこの瓦の時期ですが、このような瓦当面に文字のある瓦は、平安時代前・中期では官営の瓦工房の名前を示したものとも考えられていますが(京都府立山城郷土資料館1983『山城の古瓦』・京都市考古資料館1995『平安の古瓦展』)、上原真人さんによれば、とくに中房に数字や「卍」などの1文字を置く瓦は、南都東大寺や京都の近辺で出土する中世瓦の一群で、実年代は、東大寺の中房に「七」字をいれた瓦との関係から、治承4年(1180)の南都焼討後の東大寺東塔再興にともなう嘉禄年間または天福年間の13世紀はじめ頃と考えられています(「京都における鎌倉時代の造瓦体制」『文化財論叢2』奈良国立文化財研究所)。
さて、それではこの瓦がこの場所からみつかったことはどのような意味をもつのでしょうか。まず最初に気になるのが、瓦の周縁がきれいに無くなっていることです。これは意図的に周縁を打ち欠いた可能性を示します。そうすると、この瓦はこのまま屋根に載っていたものではないかもしれません。
次に同様な瓦が出土した場所についてみてみましょう。 まず平安京左京三条三坊十一町ですが、その西部から南北方向の堀(幅4メートル・深さ1.5メートル)、東側の中央部から備前焼の大甕群がみつかっています。室町時代の文献が無いため詳しいことは分かりませんが、堀で囲まれた町の景観は、今回の調査地点と似ています。 また、左京七条三坊五町と左京八条三坊は、鎌倉時代前期までは七条町とその周辺地域として、政治・文化・経済の中心地でしたが、鎌倉時代後期以降は葬送の地となります。これらの瓦はこの地区が最も盛んだったときの瓦だったことになります。
調査の途中ですので、これ以上のことは現在わかりませんが、これまでのことから、この瓦は白川や嵯峨そして七条周辺などの平安時代終わりから鎌倉時代初めにかけて成長していた地域にあった寺院と関係が強かったことが考えられます。
その点で思い出すのが、新町キャンパスの北に所在する持明院です。12世紀初めに能登守鎮守府将軍藤原基頼によってひらかれたこの邸宅には、持明院という持仏堂が建立され、その後通基によって拡充され九品阿弥陀堂になり、同時に持明院は「一条北辺」の名第として天皇家と深い関係をもち続けます。本学今出川キャンパスの所在するこの地もまた、平安時代終わりから鎌倉時代にかけて大きく成長した場所だったのです。
それではこの瓦は持明院の瓦だったのか、そしてこの場所で室町時代にそれを転用した構えをもった寺院はなんだったのか。検討を続けましょう。