発掘物語3 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第1回 : 本満寺発掘、始動!

渡辺 悦子
同志社大学 歴史資料館 調査補佐員

最終更新日 2003年4月8日

 これからはじまる発掘調査は、北半分は中世に「桜御所」とも呼ばれた近衛家の邸宅が、南半分は室町時代開基の本満寺という法華宗の寺院があったと考えられている地点(場所は新町校地のすぐ南)で行われます。

 同志社大学新町校舎の場所に近衛家の邸宅があったことはこれまでの発掘物語でたびたび触れられてきました。この本満寺が近衛殿の南側に位置したことにはわけがあります。法華宗の寺である本満寺(正確には広宣流布山 本願満足寺)は、寺伝によると応永十七年(1410)、日秀によって開かれたと言われていますが、この日秀は関白・近衛道嗣、すなわち近衛殿を所有する人物の長男にあたるとされるのです。言伝えによっては、日秀自身が父の別荘を得て近衛殿に建立した、日秀と異母兄弟の兼嗣が近衛殿に寺を建立して兄・日秀を招いた、或いは父・道嗣自身が法華宗の熱心な信者であったために邸宅を寺にした、など様々な説がありますが、全てに共通するのは共に近衛家を出自とする人物によって、もともとは近衛殿の敷地内に建立された寺であったということです。 本満寺はやがて近衛殿の南外側に移され、その寺域は伝承などから元本満寺町の北側全体を占めていたと推測されます。天文五年(1536)、新興の法華宗v.s.旧来からの仏教勢力・比叡山という構図で起こった「天文法華の乱」の際には、本満寺では町衆を含めた法華宗徒が「構え」や「堀」を築いて立てこもり戦ったとも言われます。乱そのものは最終的に比叡山の僧兵によって本満寺を含めた法華宗二十一本山全てが焼き討たれ、応仁・文明の乱をはるかに上まわる兵火の被害と、天明の大火(1788)に匹敵する規模の罹災を出し終結しました。

 法華の乱の後、寺が現在の位置である寺町通鶴山町に移転するなど、旧地における本満寺の実態はあまりはっきりしていません。しかし今回の調査が行われるのはそんな本満寺の西側の一角と推定されるところであり、この寺に関わる遺構の発見が予想されます。特に、室町時代の寺周辺の防御施設や乱で焼き討ちにあった時の火災層の出土も期待されています。乱の際に使われた本満寺の「構え」についてもよくわかっていませんが、史料方面の調査も進められる予定です。これからはじまる発掘物語3では、きっと知られざる本満寺の一端が明らかとなることでしょう。乞うご期待!


新町校舎



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