発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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上京富有

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年5月31日

 それは大学会館地点の発掘調査がはじまって2日目の、上立売通りに面した一番北側のトレンチでのできごとでした。

 江戸時代後期の盛土を掘り下げていた時、炭混じりの土の間からたくさんのかわらけが姿を現しました。「おお、かわらけ溜まりだ」と、いつものように、竹ベラとスポンジできれいにその形を出して、出土状況の写真撮影と写真測量を済ませ、掘り下げにかかりました。

 しかしここから先がいつもと違っていました。遺構は予想以上に深く、かわらけは炭混じりの土と一緒に次から次へと続き、それだけではなく、様々な陶磁器も出土しはじめたのです。これはただのかわらけ溜まりじゃないな、と思っていると、織部黒の向付がぽっこり顔をだし、しまいには墓石として使われた五輪塔の一部まで出土する始末。結局掘り終わってみれば、数十枚のかわらけ、織部黒の向付、志野皿、笹文の志野織部皿、天目茶碗、肥前唐津の灰釉溝縁皿、三島手の唐津碗、中国製染付碗、李朝の白磁、「露」印の飴釉碗、瓦質に焼かれた火鉢、備前焼の壷など、高価な茶器を中心とした多種多様な焼き物と1点の「唐国通宝」が、整理室のテーブルに並んでいました。

 さてこれらの土器や陶磁器ですが、かわらけは、その形の特徴から、おおむね慶長頃(16世紀末から17世紀初め)と考えられます。一方陶磁器はどうかとみると、その組み合わせは、豊臣秀吉の晩年に築かれた大坂城三の丸築造以降で大坂夏の陣または徳川大坂城再築までの時期(1598年から1615年または1629年まで)の組み合わせと似ていますが、その中に見られないものもあります。

 そこで佐賀県九州陶磁文化館の大橋康二さんにお聞きすると、三島手の唐津碗は1610年から1640年代くらいに生産されたもので、灰釉の溝縁皿は1610から1630年頃に生産されたものだそうで、瀬戸市埋蔵文化財センターの藤澤良祐さんにお聞きすると、天目茶碗は17世紀初めで、ほかのものもおおむね17世紀前半頃におさまるだろうということでした。

 したがってこれらの土器と陶磁器は、おそらく慶長年間直後くらいの、17世紀のはじめに集められ、しかし不運にもそれから間も無い時期に、一気に、おそらく火事などによって捨てられたものと思われます。しかもその原因になった事件は、墓石も破却するほどの事件だったことも考えられます。

 そしてこれらの焼き物は、大坂だったら大名屋敷や大商人の屋敷跡から出土するような、おそらく茶事に関わる品々とみられるのです。これはいったいどういうことでしょうか。

 記録(耶蘇会士日本通信)によれば、安土桃山時代の上京には、富有な人々が多く居住していたとされますが、織田信長は、彼らがもっていた高級な唐物を強制的に買い上げたり、元亀4年(1573)には、信長新邸の周壁の破壊を理由に「上京焼き打ち」をおこなったとされています。

 残念ながら、これらの陶磁器の年代はこの記録とは合いません。しかしこれらの焼き物が、安土桃山時代の記録に描かれたような、隆盛を誇った上京の人々の姿を生き生きと甦らせる資料であることは、間違いないものと思います。三条通りでは、このような焼き物をあつかっていた店と思われる遺跡もみつかっています。

 誰かが思わずつぶやいていました。「これだから京都の遺跡はあなどれない」と。

 (元和6年(1620)2月30日、新町京屋町からあがった火の手は、上京をおおい、相国寺にまでおよんだと伝える。「孝亮宿禰日次記」この焼き物にまつわる可能性のひとつである。)


今回発掘された遺物。



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