発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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金閣寺

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年8月16日

 金閣寺を見学してきました。現在調査中の室町時代から江戸時代は、京都にとってはそれほど古い時代ではなく、見回せば、それらが今なお町のそこここに息づいていることに気づきます。その意味で中世や近世の考古学は、わかりやすく現在と過去をつなぐ研究であるとも言えます。ですから、会館地点の調査をしながらも、その頃の歴史を残す社寺がきがかりでなりませんでした。とくに義満の造った施設については。

 そこで、国立歴史民俗博物館の小島道裕さんからお聞きした金閣寺の様子を念頭に、14日の午後、大学の一斉休暇を利用して、義満の造った北山殿を訪れてみました。

 周知のように、金閣寺は京都市北区にある鹿苑寺(臨済宗)の通称で、山号は北山で、鹿苑は義満の法名です。足利義満が、応永4年(1397)に西園寺公経の別業北山第を譲り受けて北山殿として造営しました。西に向かって築地塀にはさまれた総門をくぐると、左に鐘楼、右手前方に庫裡・方丈・書院がならび、金閣とその姿を写す鏡湖池は、さらにその西に位置します。鏡湖池のもとになった西園寺家時代の庭園の美しさはすでに鎌倉時代から有名だったそうですが、義満はその遺構を生かしながら、西芳寺(苔寺)をモデルにこの庭園を造営したそうです。

 庭園の中心は池泉回遊式であり、かつ舟遊式でもある鏡湖池です。中央に葦原島をおき、西岸は突出した「出島」をはさんで大きく湾曲し、北と東の岸は直線、南岸はこまかな凹凸がつくりだされ、それぞれの岸は景石と木杭で護られています。水は北の安民沢を水源として、龍門滝を落ちておおきく西をまき、金閣の西で鏡湖池に流れ込んでいます。大きさは最大で東西・南北ともにほぼ100m。まさに1町規模の池で、金閣はその西に舟をつないでいます。

 ところでこの鹿苑寺の広さですが、北側の安民沢と不動堂をのぞいても、総門から鏡湖池までが約100m、鏡湖池の1辺が約100mなので、少なくとも東西2町・南北1町以上の規模と言えます。

 義満の室町殿は南北2町・東西1町の範囲で、1町のひろさの池があったと言われています。


~金閣寺~



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