鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2002年7月29日
町田家旧蔵歴博甲本に次いで有名なのが、上杉家本洛中洛外図です。高橋康夫さんによれば、その制作年代の上限は天正2年(1574)と考えられるものの、その描写は天文末年頃(16世紀中頃)の洛中洛外の光景を多く描こうと意図したようにみえるとされています(『洛中洛外』平凡社)。
このなかで足利将軍邸とされる屋敷は、烏丸・今出川・室町・上立売に囲まれた場所に描かれており、これが天文11年(1542)に造営された足利義晴の花御所にあたると考えられています。
洛中洛外図の写実性については、今谷明さんの指摘(『京都・一五四七』平凡社)をはじめとしてさまざまな意見がありますが、上杉家本洛中洛外図の将軍邸が、なんらかの事実をふまえて描かれた可能性の高いものであるならば、現在調査中の大学会館は、そのちょうど東北部にあたることになってきます。
そこでその部分のとくに東北隅について、少し詳しく見てみましょう。絵図によれば、室町殿の周囲は築地塀(現在の京都御所のまわりを囲んでいるような土塀)で囲まれていますが、その北東隅には、吉田神社から勧請された鎮守社が、東の烏丸側に門扉を設けて赤く描かれ、築地塀はその社の敷地の北と西と南をめぐって室町殿全体の東を限る築地塀につながっているように見えます。
したがって室町殿の北東隅を築地塀に注目してみれば、そこには上立売通りに面して室町殿全体の北を区切るものと、その南で社の南を区切るものの、二本の築地塀が平行してあったと考えられることになります。
これまで上立売通に面した地区の調査をおこなってきましたが、現在その中で最も烏丸通りに近い部分を調査しています。
これまでの調査箇所からは、上立売通りの際で、東西方向にのびる石敷きが確認されていましたが、部分的なものであったため、その性格については詳しく検討することができませんでした。
これに対して、現在の調査地点から、その石敷きの南側約5mで、やはり東西方向にのびる石敷き(幅1.6~1.8m)がみつかりました。時期はおおむね16世紀前半代と考えられます。なお上立売通際の石敷きは、今回の調査区の範囲外になりそうです。
中世後半の築地の遺構について詳しいことはわかっていませんが、相国寺境内の調査では、土塁の基礎におびただしい量の石が敷かれていました。
まだ断定はできませんが、これらの石敷きが築地の基礎であるならば、その配置は先に見て来た上杉家本洛中洛外図に描かれた室町殿北東隅の景観に類似したものと言えます。詳細な検討を続けます。