鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2002年7月22日
上立売通り沿いの調査地点のなかで、最も烏丸通りに近い場所を調査しています。七夕の前日の時点で江戸時代初め頃の土層が顔を出しており、東西や南北に並んだ礎石や、固く締まった粘土面(土間?)、そして焼け土の偏った分布範囲などが、当時の建物配置の推定に、てがかりを与えています。
そして調査区の南端中央で発見された土器も、そんな江戸時代初期の土器は直径14㎝の小型の壷で、一般に胞衣壷と呼ばれているものです。蓋も付いていましたが割れて一部が中に落ち込んでいました。
「広辞苑」によれば、胞衣とは胎児を包んだ膜と胎盤のことをさし、産後5日または7日には、胞衣を桶または壺に納めて吉方(えほう)の土中に埋める胞衣納めの儀式がおこなわれたとされています。
木下忠氏の「埋甕」によれば、江戸時代の女性の手習鑑である「女芸文三才図絵」の中に、家の出入り口にあたる土間をすきで掘って、そこに塩水をうち、胞衣桶をおさめようとする図があります。また元禄五年(1692)の「女重宝記大成」にも胞衣桶を埋める図があり、地神をまつるために塩水をまき、七・八寸の桶の中には、苧・藁、熨斗、米、竹製の小刀(当代はその代わりに銭を12枚入れる)、および、かわられの上に臍の緒をのせて紙に包んだものなどが入れられたようです。
また胞衣をおさめるには、方向を見て、良き方へ納めるべしとする一方で、世間一般には「敷居の下、または人の往来しげき所に埋める」または「産したる居間の下に埋む」とされています。
さて、今回胞衣壷の出土した場所は、ちょうど上立売通りからも烏丸通りからもほぼ同じくらい奥に入った位置にあたります。一般に京都の町屋は地口が狭く奥行きの深い敷地をもつと言われていますから、そうすると、この場所は家の出入り口とは考えにくいことになります。
ただし、この壷のみつかった場所からまっすぐ上立売通りにむかっていった先に土坑があって、そこから江戸時代はじめの陶磁器が捨てられてでてきました。またこの軸に平行して、南北に礎石が並ぶ状況もみられます。したがって、この壷から北の上立売通りに向かう部分には、建物が無く、そこが土間か通り庭だった可能性は考えられます。
上京に生きていた人々の姿をよみがえらせる努力を続けます。