発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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続 文明九年

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年7月19日

 文明九年は西暦になおすと1477年。室町殿の時代です。そこで、いくつか状況を整理してみましょう。

 まずこの石塔の出土状況ですが、見つかったのは、江戸時代後期より新しいと考えられるゴミ穴で、また、きちんと立てられていたわけでもありません。さらにその加工痕の様子からも、再利用されていた可能性が考えられます。したがって、この石塔に彫られた年号が、室町殿があった頃の年代と読め、出土した場所が室町殿の一角にあたっていたとしても、この石塔と室町殿が直接つながる可能性は、むしろ低いものと思われます。

 次に確認しなければならないのは、一見すると江戸時代の墓塔とも紛うこの形が、室町時代の石塔にあるのかどうかです。詳しい検討は必要ですが、該当する石塔として、笠塔婆の可能性が考えられます。

 庚申懇話会の「日本石仏事典」によれば、笠塔婆とは「長方形の塔身に仏菩薩またはそれにかかわる種子や名号・題目などを刻し、その上に傘を乗せた」もので、塔身は方形の角柱・板状・板状自然石で、基礎は台石を持つものと直接土中に埋め込むものがあり、最古の例は、熊本市本光寺の安元元年(1175)のものが知られています。また川勝政太郎氏の「日本石造美術辞典」によれば、京都市内では、実報寺の開山笠塔婆(14世紀中頃)や妙覚寺の三基の題目笠塔婆(15世紀初め)などが有名で、いずれも「南無妙法蓮華経」の題目と蓮座が彫られているそうです。

 さて文明9年といえば、畠山義就が河内へ帰り、土岐成頼や大内政弘らも領国へもどり、11年間に及ぶ応仁の乱に終止符のうたれた年でした。室町殿も、その前年の11月13日に焼失していますが、この年閏1月には石見に室町殿造営段銭がかけられ、同11月20日には、「敵陣没落、世上無為珍重の儀」として室町殿へ参入する人々で賑わったとされる記事があり、正式の再建は文明11年ですが、焼失後の仮の復旧は速やかにおこなわれていた模様です。

 ところでこういった政治の世界の一方で、とくに応仁の乱前後の洛中は、町衆に支えられた法華宗が飛躍的な繁栄をとげました。その寺院は洛内二十一カ本山と呼ばれ、文明13年の記録には、「当時法華宗の繁昌は耳目を驚かすものなり」と著われ、天文元年(1532)の頃には、「京中大方題目の巷」と言われるほどであったとされます。このうち上京では今出川新町にあったとされる本満寺(本国寺の開山とされる妙竜日静の法孫日秀が、応永16年(1409)に近衛家の外護によって本国寺から分立)が有名で、文明9年には、身延12世の日意が妙伝寺を上京に開いたともされています。

 この石塔は、そんな室町時代の上京を語る証人かもしれません。


石塔の写真。



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