発掘物語 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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基本層序と火災層-新町北別館地点の場合-

松田 度
同志社大学歴史資料館非常勤嘱託職員
同大学院博士課程後期

最終更新日 2002年6月6日

 新町北別館地点では、上から順に第1層(明治時代から現代)、第2層(江戸時代後半期)、第3・4層(室町時代から江戸時代前半期)、地山(人間が住み始める前の自然堆積)とし、調査をおこないました。

 この遺跡では、深いところでは地表面から約3mで地山に達します。平安京の時代や鎌倉時代の生活の痕跡はすでに削平されていましたが、南北朝から室町時代にかけて使われていた堀が、地山に掘り込まれた状態でみつかっています。この堀が室町時代に埋められ、整地がなされた後(第4層がこれに相当する可能性があります)、鏡作り工房群が登場します(第3層の上面で鏡の鋳型がみつかっています)。この工房群の正確な操業時期はまだ確定できていませんが、第2層でもその痕跡がみられ、江戸時代の中ごろまで続くようです。

 特に第2層と第3層の上半部は、焼土と炭の混じる特徴的な層です。よくみると、最下部に炭、その上に焼土、最上部に灰色の硬い土が堆積しています。これは、最初に火災で燃えた木材などが埋没し、次に崩れた壁材や焼土が整地でならされ、その後人々の往来で踏み固められた土が堆積するといった、火災後の復旧過程を示すと解釈することもできます。

 この火災層の存在から、江戸時代の前半期にすくなくとも2回、付近一帯が大規模な火災に見舞われたことが証明できます。鏡作り工房群の操業時期との関係性も興味深いところです。今後、当時の文献の火災記事も参考にして、土層の堆積時期をさらに絞り込む必要があります。

 中近世都市京都の実態を探るうえで、火災層から学ぶことは数多くあります。火災の前後で町の景観がどのように変わったのか、遺跡の変遷過程から当時の京都の町並みを理解する、ということもその一つでしょう。


石組に流れ込んだ火災層


火災層(上:第2層、下:第3層)




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