松田 度
同志社大学大学院 博士課程後期
最終更新日 2002年4月20日
この鏡は、鏡面径18.9cmの柄鏡です。高熱によって変形し、柄の部分を欠いていますが、鏡背に「桐」という文字、その左側に「稲村備後守藤原吉長」の銘があり、銘の表現や鏡の型式から判断して17世紀後半~18世紀前半の年代に位置づけられます(註)。桐の紋様は吉祥の意味で当時多用されましたが、柄鏡に篆書体で「字」として表現した例は珍しく、篆書の教養がある人々に愛された特注品ともいえそうです。
この鏡は、遺跡での出土状況から、火事で焼けた様々なものといっしょに捨てられたと考えられますが、興味深いのは、同じ時代の焼土やその下の生活面から、鏡の鋳型や鋳造にかかわる工房跡がみつかっていることです。
この遺跡で出土した青銅製品の多くは、鋳造にかかわる工房で集中してみつかることから、リサイクルのために工房に持ち込まれた可能性があります。この鏡もリサイクルされる運命で工房に持ち込まれたのが、運悪く(運良く?)おこった火事で溶かされることなく土に埋もれたのかもしれません。
この鏡は、その製作地の問題も含め、江戸時代に上京で活躍した鏡作り師の歴史を探るうえで貴重な資料といえます。
(註)鏡の年代については久保智康氏(京都国立博物館学芸員)に、文字の解読については陳波氏(関西大学講師)にご教示いただきました。なお、同じ銘では他に宝永二年(1705)のものが知られています(広瀬都巽1974『和鏡の研究』角川書店)。