発掘物語 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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捨てられた「かわらけ」

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年3月14日

発掘物語の第8号で、新町北別館地点の南側のトレンチから発見された地下蔵の報告をしました。その中で南西隅の地下蔵の写真に褐色の「なにか」が写っていましたが、お気づきでしたでょうか。

実はこれらはすべて直径12センチほどの素焼きの皿でした。遅くとも15世紀後半以降は岩倉の幡枝などで焼かれ、京都市内では灯明皿などに使われ、多くの家でみかけられたものと思います。

文献に「土器」または「かわらけ」という名称で登場するこの皿は、1度使うと汚れが目立っておちにくいため、逆に使われていない時の皿の清浄さが尊ばれ、『枕草子』にも「きよしと見ゆるもの」として登場します。そして実際にその時代を代表する鳥羽離宮や平泉などの遺跡でたくさん発見され、宴会をはじめとするさまざまな儀式や神聖な場で、多く用いられたことがわかってきました。

一方室町時代になると、「かわらけ」を多用する儀式が「式三献」と呼ばれる武家の食膳儀式の中にみえ、全国的にも館と思われる遺跡から「かわらけ」が多くみつかるようになります。したがってこの土器がたくさん出土したすぐ近くには屋敷があって、そこで大人数の宴会がおこなわれた可能性の高いことが考えられます。

ただし今回の土器は石組みの地下蔵が不要になって、ほとんど埋まった上からみつかりました。ということは、これらの土器は宴会の後というより、その屋敷が廃絶した時に、ゴミとして捨てられたと考えた方がいいようにも思います。

考古学で重要な役割を果たす遺物ですが、それがどのように発見されたかで、その歴史的な意味はまったく違ってくることがあります。


発掘物語第8号における写真に写っている「からわけ」達


その中の一部分を拡大して見ました。



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