普賢寺谷日記| 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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第2回 : 普賢寺谷の遺跡を読む(講義バージョン)

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2003年12月22日

 みんなも知っているように、京田辺キャンパスは遺跡の宝庫です。弥生時代の天神山遺跡にはじまり、室町時代の新宗谷(しそがたに)館跡まで、日本列島の主要な時代のほとんどの遺跡がここにあります。それはなぜでしょう。

 すべての遺跡というものは偶然そこにあるのではありません。遺跡というものは、かつてそこにいた人間の行為の結果です。ですからすべての遺跡は、そこでなにかをしなければならなかったという人間の行動の必然性と深い関わりがあると読まないといけないのです。

 それではここにどうして人間の行動が集中する必然があったのでしょうか。現在考えられているその最も大きな理由が、この場所の地理的な環境です。古代、中世において、河川あるいは水系というものは、現在の高速道路に匹敵するくらい重要な交通路でした。その目でこの普賢寺谷周辺をみると、ここは木津川の南北ルートと北河内から宇治田原を抜けて近江に向かう東西ルートの交差点にあたります。この場所は、その意味で南山城で最も重要な場所だったということが言えるのです。

 普賢寺谷の館群を考えるときこの、この視点をぜったい忘れないでください。

 さて問題の館群は、そんな普賢寺谷を見下ろす南北の斜面の尾根を利用して作られています。絵図によればその数は20を越えます。館の周りには町屋がありますから、これはもう都市と言っていいでしょう。

 ところで、中世の館ってどんな姿をしていたと考えられているのでしょうか。教科書に載っているのは、大体周りを堀と土塁で囲まれて、中に何軒かの家を構えたものです。そしてそういった館のまわりに、たくさん家があつまって町がつくられます。少し離れたところには市もあります。基本的には、室町時代の館とその周辺のイメージはこういった姿でいいと思います。

 けれども、普賢寺谷の館群の場合はその立地が変わっていて、尾根を削って平らにした場所をいくつか作って、そのそれぞれの場所に屋敷を設けているのです。一見すると山城のようですが、そこまで平地との高さの差は無いので、城というよりもやはり館になると思います。そしてそういった館がこの谷を挟んでたくさん集まっているのです。その風景は、あるいはこの谷全体を大きな城とみたて、個々の館はその郭といった関係なるかもしれません。こういった例は、全国でも珍しいものと言えます。

 それではみなさんよいお年を!


普賢寺谷――ローム館屋上より(画面左は天神山)




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