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南山城という歴史を辿る

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2001年10月10日

古代・中世の南山城は、様々な文化の交錯した地域でした。古代の南山城は渡来系氏族の名を多く伝え、京田辺市の大住は南九州の大隅隼人との関係を示します。また仁徳期には皇后の磐之媛命が、筒城岡の南にあって養蚕を行っていた百済系氏族の奴理能美の家を宮室にし、継体大王はその5年から12年までを筒城宮ですごしたと伝えられています。いずれも現地比定は難しいですが、京田辺キャンパスのある山城国綴喜郡綴喜郷の周辺であった可能性は高いものと考えられます。

古代・中世において、南山城を縦貫する木津川は、大阪湾から奈良盆地へ入る最も重要な幹線であり、それゆえこの地は大和への玄関口として重要な位置にあったのです。そして京田辺キャンパスの南に位置する普賢寺谷は、木津川の支流として南山城で最も大きな普賢寺川を擁して開け、西は河内へもつながる交通の結節点でした。

木津川との合流点を見下ろして、弥生時代には天神山遺跡が、古墳時代には飯岡古墳群が築かれ、7・8世紀には普賢寺と下司古墳群および須恵器窯がつくられます。室町時代におきた山城国一揆の、拠点とも思われる中世居館跡群がこの地に営まれているのも、このような南山城の歴史的背景の中から考えていく必要があります。


京田辺キャンパス造成前の風景
(同志社大学整備計画課 1980『田辺校地について』より)



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