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新島襄と考古学

最終更新日 2001年12月9日

校祖新島襄先生は、さまざまの新しい学問に関心をもたれ、考古学もそのひとつであった。それを証明するように、先生の遺品のなかに、三重県の千草城址(四日市市郊外)での採集品として27点の縄文時代の石器がある。 また、先生みずからが購入を手配し、インキでナンバーを打たれた書物として、Sir john Lubbockの名著“Pre Historic Times”がある。この書物は、日本には初版本は無く、二版が東京大学にあるだけである。三版が無く、四版が新島先生の購入されたこの書物なのである。いち早くイギリスの書物を入手しておられたことからも、やはり考古学への関心の一端が示されている。

明治の段階では、考古学はまだ大学での講座になるほどの学問的体裁は整っていなかったから、同志社大学で考古学が正式に授業のうえで登場するのは太平洋戦争以後のことである。長らく東京大学理学部人類学教室で研究を続けられた酒詰仲男先生が招かれ、考古学研究室が開設されたのは1953年である。当時は、各府県に文化財担当の技師はほとんどいなかったこともあって、学生参加の発掘が活発におこなわれた。このような学術研究の過程で生み出された資料を、私は学術財と仮称している。当然のこととして、酒詰先生の活躍によっておびただしい学術財が同志社大学に残された。だが、酒詰先生は1965年に急逝され、そのあとを私が継いだ。

田辺校地の買収によって、遺跡の所在を確認し、遺跡公園として保存するため、探索と試掘が始まったのは1966年である。最初は文学部の考古学研究室が担当したけれども、今出川校地での図書館の建設にさいして、一研究室では対応すべきでないとの判断で、1972年に校地学術調査委員会が発足した。今日では多くの大学に類似の組織があるけれども、それを設けたのは同志社大学が最初である。

1996年、同志社大学ではこれらの学術財の保存と利用をより円滑にするため、考古学資料室を基盤として、同志社大学歴史資料館を発足させ、あわせて従来の校地学術調査委員会の業務も引き継ぐことになった。

(同志社大学名誉教授・歴史資料館顧問 森 浩一 1999 「同志社大学と考古学」より)


新島襄のデッサン

写真は「漫遊記」『新島襄全集』5より、明治21年(1888)6月6日に「小町村ノ役場 小町村戸長役場ニ行キ、無縁塚ヨリ採掘シタル古器、人形、馬類を見物し、之ヲ模写ス 壺2個 図を見ヨ、人形の頭 坊主ノ甲冑ヲ着ケタルモノ 馬頭 馬尾 鞍 鐙ハ赤キ瓦ノ如キ焼物ナリ」の記載による。(同志社社史資料室蔵)




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