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四ツ池遺跡と弥生時代のくらし

三阪 一徳

最終更新日 2005年10月3日日

 四ツ池遺跡は大阪府堺市浜寺船尾町に所在する縄文時代から中世にかけての集落遺跡です。遺跡は泉北丘陵と信太山丘陵が北西にのびた突帯部の三光台地の低位段丘上(標高約11~12m)と、その周縁部をめぐる石津川の氾濫原である沖積地(標高4~5m)に立地しています。

 四ツ池遺跡は明治時代から石器の散布地として知られていました。大正時代から昭和の始めにかけて吉井太郎、大野雲外、梅原末治、鳥居龍蔵、本山彦一、岩井武彦、前田長三郎氏など多くの研究者によって、研究雑誌に紹介され、弥生時代の遺跡として認識されはじめました。また益子帰来、八幡一郎、中山平次郎氏、本学の森浩一前教授(現名誉教授)らよって「蛸壺形土器」の研究が進められ、さらに注目を集めました。本格的な調査は、1940年代後半から60年代後半に、堺市浜寺中学校の造成に伴って、末永雅雄、堅田直氏らによってはじまりました。その後1960年代後半から70年代後半にかけて、大阪府教育委員会が第2阪和国道(現国道26号線)敷設に際して発掘調査をおこないました。現在も、堺市教育委員会が中心となって開発に伴う調査をつづけています。現在では、南北1㎞、東西800mの範囲で遺構・遺物が確認されています。縄文時代晩期から弥生時代全時期を通して集落の変遷を追うことができる点で非常に重要な遺跡です。


四ッ池遺跡の弥生土器

 今回は四ツ池遺跡の弥生時代の様子を中心に紹介します。前段階である縄文時代晩期に籾痕が付着した突帯文土器(船橋式)が出土し、当時期に稲の存在を示す重要な資料となっています。次に弥生時代の集落の変遷について説明します。前期には小規模な住居域が三光台地とその周囲の低地に3箇所存在するのですが、中期には三光台地に集まって、周りが川や溝に囲まれた大規模なものとなり、最盛期をむかえます。この時期には住居域の周りの低地に、方形周溝墓を中心に構成される墓域が4箇所存在することがわかっています。後期に入ると、再び集落が分散、縮小します。このような居住域や墓域の変遷や位置関係は、当時の集団間の関係をあらわしていると考えられます。住居域とは、竪穴住居跡や、掘立柱建物跡がある区域のことです。続いて遺物から当時の生活をみていきます。米づくりをしたことを示す石包丁・木製の鍬・鋤、狩猟を示す石鏃(石製のやじり)・木製の弓・獣骨、漁を示す土錘・石錘・飯蛸壺形土器、採集を示す果実の種子が出土しています。稲作だけではなく、狩猟や海や川への漁、採集をしてさまざまな食料を得ていたことがわかります。獲得した食料を、甕形土器で煮炊きしたり、壺形土器に貯蔵したり、鉢形土器や高杯形土器に盛り付けたのでしょう。石斧などをもちいて木材の伐採や加工をし、建物や様々な木器がつくられました。その他に、祭祀の道具である銅鐸が、石津川流域に所在する浜寺昭和町遺跡と下田遺跡でみつかっています。当時の人々の思想の一端がうかがえます。古墳時代に入っても規模は縮小するもののも集落は存続し、古墳時代中期には和泉地域に百舌(もず)古墳群や陶邑(すえむら)古窯址群が出現する社会状況の中で、石津川流域の集落も大きく変容していきます。

 当資料館は四ツ池遺跡の出土品の一部を収蔵・展示しています。これらは森浩一氏が1960年代以前に表採した資料で、主に弥生時代の土器と石器です。土器のうち吉備系の高杯、朱を入れた鉢形土器、ミニチュア土器、飯蛸壺形土器などが特筆されます。石器は、石鏃、石剣、石包丁、石斧、石錐などがあります。また四ツ池遺跡の資料を中心に、弥生時代以降の飯蛸壺・蛸壺形土器の変遷の様子も展示しています。ぜひご来館いただき、約2000年前の四ツ池遺跡の中で生きた人々が実際に使った道具を間近に感じ、彼らのくらしぶりを想像してみてはいかがでしょうか。


飯蛸壷


磨製石剣


参考文献

  • 森浩一「大阪湾沿岸の飯蛸壺形土器とその遺跡」『古代学研究』第2号1950年
  • 森浩一「和泉國高月古墳調査報告」『古代学研究』第5号1951年
  • 『四ツ池遺跡‐第83地区発掘調査報告書‐(堺市埋蔵文化財調査報告書 第16集)堺市』教育委員会1984年
  • 『特別展 堺発掘物語‐古墳と遺跡から見た堺の歴史‐』堺市博物館2001年




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