発掘物語2 | 執筆記事|同志社大学歴史資料館

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室町殿の範囲について

鋤柄 俊夫
同志社大学 歴史資料館 専任講師

最終更新日 2002年8月6日

 発掘物語2の第8回で見てきたように、室町殿の建物群は、義満以降何度か大きくその姿を変えています。そしてどうやらその敷地についても、同様なことが言えるようです。川上貢さんの大著「日本中世住宅の研究」からその様子をたどってみたいと思います。


史料1
・永和4年(1378)義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
・康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
 言うまでもなく最初の室町殿です。邸宅の敷地はその前身邸にしたがい、南北に分かれ?、それらをあわせた範囲は、北小路(今出川)以北、柳原(上立売?)以南、今出川(烏丸)以西、室町以東であったとされています。なお、いわゆる「花御所」が義満以前からあった北御所の呼び名であったこともこれらの史料から知ることができます。


史料2
・永享3年(1431)義教、室町北第(上御所・北小路室町殿)の造営始め。室町北小路新第に移る。
・永享6年(1434)義教、上御所の池に舟を浮かべる。
 このとき(永享4年)の上御所の大饗指図を長禄2年(1458)に写したものが国会図書館にありますが、描かれているのは敷地の西半分のみ。ただし室町通に2つの門があって、その東に寝殿造りの殿舎が並ぶ様子は、洛中洛外図の描写を彷彿させるもの。なお、記録による敷地の表記は「北小路北、室町東」。


史料3
・嘉吉元年(1441)義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺(のちの勝智院)が造営される。
この史料によれば、室町殿の南側に寺がつくられた結果、室町殿の南辺は北小路に面していなかったことになります。


史料4
・嘉吉3年(1443)義勝の死により、義勝の弟の義政が室町殿を相続。しかし義政は、室町殿の施設を上御所(烏丸殿)へ移す。
・長禄2年(1458)義政、室町新第にうつる。
 義政は一時烏丸殿を本拠としますが、再び室町殿に戻ります。さきの永享の大饗指図の写されているのがこの年で、義政の室町新第はこれを意識したのでしょうか。なおこの時の範囲の記事はありませんが、次に造営される室町殿が南北60丈を敷地としているので、この時の室町殿も、南辺は北小路(今出川)を北に上がった場所にあった可能性があります。


史料5
・文明11年(1479)義尚(義政)、室町殿(花御所)造営開始。東西40丈、南北60丈。築地は南北40丈。南20丈には小屋。
・文明13年(1481)義尚(義政)、花御所御作事始め。四方築地。
 この史料によれば、文明8年の火災により焼失した後、再建された室町殿の築地の範囲は方1町規模だったことになりそうです。さらに、その南の20丈は築地のない室町殿の敷地だったとも読むことができるのでしょうか。


史料6
・天文11年(1542)義晴、北小路室町の旧地に室町殿を再建。
 この史料でてがかりになる室町殿の範囲は、「北小路室町」と「旧地」の表現です。
 ところがこれまでみてきたように、この「旧地」が問題で、それが義満~義教の将軍邸であるすれば、敷地の範囲は南北2町?に、一方それが1441年以後の義政(義尚)の将軍邸であるとすれば、1町四方の築地?とその南半町の敷地範囲と考えられることになるのですが、このときの室町殿はそのどちらになるのでしょうか。
 ところでこの時の室町殿は、上杉家本洛中洛外図との関係が指摘される室町殿になるはずですが、洛中洛外図の記述によれば、北が上立売、西が室町、東が烏丸となり、南は今出川に該当する通りが館を囲みます。
 ただし注目されるのは、その築地の南辺が2重になっており、そこに空閑地が描かれていることです。これがもし義教の妻が造営した寺の故地を示すのであれば、この室町殿は義政(義尚)の室町殿の敷地を最大に利用したものだったと言えるのかもしれません。


花御所推定地図



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