※この報告で用いた遺構・遺物実測図については、PNG形式による縮小画像のみの閲覧となっております。
詳細をご覧になりたい方、DXF形式のベクターデータでの閲覧を希望される方は、図・表一覧からのダウンロードでご覧いただけます。

このサイトに用いられている地図の作成に当たっては、 国土地理院長の承認を得て、 同院発行の数値地図250mメッシュ(標高)を使用したものである。 (承認番号 平13総使、第285号)

なお、本報告で用いた地図を二次的に利用する場合、個人的な利用の範囲であれば手続き等は不要ですが、別途成果物を作成される場合は国土地理院への申請手続きが必要になる場合がございます。その際は、国土地理院までお問い合わせください。


目次


はじめに

 岩倉の歴史は、その名があらわすとおり、磐座(いわくら)信仰に由来するものとされております。古くから、京都盆地の北方に位置する聖地のひとつとして、また古代以降は、都市郊外の一大窯業生産地として認知されていたことも、当地域の特色といえます。

 平安時代以降も、岩倉盆地の北には大雲寺をはじめとする寺院が相次いで建ち、また室町時代以降は、多くの貴族たちが別業を構える隠棲の地となり、また江戸時代以降は禁裏・ 法皇の御料地ともなりました。そして昭和4年(1929)、現在の同志社高等学校の移転がありましたが、以後の住宅開発などで岩倉の土地利用は大きく変貌し、現在にいたっております。

 発掘調査がおこなわれた大鷺町周辺は、従来遺跡の有無も確認されておりませんでしたが、本学の外国人客員教員宿舎(看山ハウス)建設にともなう発掘調査によって、古代に遡る可能性のある条里地割の痕跡を発見することができました。これは、岩倉地域で様々な議論がなされている、古代の条里地割の施行の問題にも一石を投じるものといえます。

 調査期間中は地元の方々に、同志社高等学校移転時の当地の利用状況などについて貴重なお話を聞くこともできました。ここにお礼申し上げます。

 歴史資料館では、このたびの調査・研究成果をふまえ、岩倉地域を含めた歴史研究をよりいっそう進めてゆく所存です。今後とも本館の活動にご指導・ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。

2003年9月
同志社大学歴史資料館
館長 黒木保博


例言

  • 本報告は、2003年7月に実施した岩倉大鷺町(いわくらおおさぎちょう)における発掘調査報告である。
  • 調査地点は京都市左京区岩倉大鷺町36番地に所在する。
  • 本調査地点の遺跡情報については抄録を参照していただきたい。
  • 調査組織は以下のとおりである。
    調査主体
     同志社大学歴史資料館
    調査担当
     鋤柄俊夫・松田度
    調査補佐
     渡辺悦子
    調査参加者
     市澤泰峰、小西沙織、斎藤夏果、杉本晃佑、眞々部貴之
  • なお、本遺跡の調査は、遺構の写真測量および出土遺物の図化を株式会社アジア航測に委託して行った。
  • 本報告の執筆分担は目次に示すとおりである。本報告の編集は松田が、WEB版への再編集は後藤隆が行った。
  • 本報告で用いた土色は、小山正忠・竹原秀雄『新版 標準土色帖 2001年度版』を基にしている。
  • 本報告で用いた図のうち、図01・02は国土地理院平成9年8月1日発行の「京都及大阪2-4-3 1万分の1地形図 岩倉」を使用した。図03から図22は株式会社アジア航測が、そのほかの図については市澤・斎藤が作成した。図23の製図は、アドビシステムズ株式会社のイラストレーター10を用いて斎藤が行った。
  • 本報告で用いた資料は、現在同志社大学歴史資料館で保管している。
  • なお、調査期間中、以下に記した方々のご協力を得た。記して謝意を表します。
    • 京都市文化市民局
    • 京都市埋蔵文化財センター
    • 同志社高等学校
    • 京都建築事務所
    • アジア航測
    • 東海アナース
    • 岩倉の歴史と文化を学ぶ会(中村治・森田和代)

I 位置と環境

i 岩倉大鷺町の歴史的環境(渡辺)

本調査地点は京都市左京区岩倉大鷺町36番地に所在する(図01)。

この地点は岩倉盆地内を南流する岩倉川を西に、東川を東に見る平野部にあたり、標高は95.8~96.3mである。同志社高等学校敷地内の東側に位置し、西隣して外国人教員宿舎である大鷺ハウス、グインハウスが建ち、南に同志社大学大成寮が接する。

調査地点のある岩倉の名は、当盆地北西に所在する山住神社の神体である巨石に基づく磐座信仰に由来すると考えられる。

当地域には、弥生時代の集落遺跡をはじめ、5~7世紀にかけて多くの古墳群が造成されるなど、古くから拓かれた土地であったことがうかがえる。7世紀以降の瓦陶兼業を特徴とする窯跡も数多くみつかっており、長岡・平安両京造営地の瓦の供給地として、また平安京成立以後は都市郊外の一大窯業地となっていった。

平安時代以降は、大雲寺を初めとする園城寺派天台寺院が相次いで建ち、また室町時代以降は将軍足利義政をはじめ多くの貴族たちが別業を構える隠棲の地となり、また江戸時代以降は禁裏・ 法皇の御料地となった。

調査地点周辺は、大鷺町に属する。「大鷺」の名は、この地に鷺が多く飛来することによると言われるが、定かではない。

また調査地点の小字名は「門田」といい、屋敷の門に隣接する田圃の意とされる。このことからも、昭和4年(1929)に同志社専門学校高等商業部が移転してくるまで、長く耕作地であったと考えられる。

調査地点を含む岩倉盆地南部は「八ノ坪」「四ノ坪」などの小字名が残るなど、条里制が敷かれたことを思わせる地割を成している。

現在も盆地の中央を東西方向に横切る一本道は、松ヶ崎や上賀茂以南に敷かれていた条里制の東西ラインにくらべ軸線がやや東に振っており、その東延長上には延喜式内社である伊多太神社の推定地がある。その北西には江戸時代より存在が確認できる三宅八幡宮が所在し、当地周辺の字名ともなっている「三宅」の名称は、古代この付近に屯倉が存していた可能性を思わせる。

ii 周辺地域での発掘・分布調査(市澤)

これまで岩倉地域においては、本学と京都大学、および京都市による調査が行われている(図02)。本学による調査は1976年からおこなわれており、岩倉地域における歴史研究に大きな役割を果たしてきた。以下にその調査の成果を記す。

1,岩倉校地体育講義棟地点(岩倉忠在地遺跡)1976年3月

体育講義棟建築工事予定地(約500m2)内の講義棟基礎部分に12か所の調査区を設定し、表土下約120~130cmまで発掘をおこなった。表土下約70㎝までは撹乱をうけており、その下に包含層が約30~40㎝の厚みをもって認められる。遺構はまったく検出されず、遺物も少量であった。出土した土器の年代としては、弥生時代後期から古墳時代初頭に位置づけられる。特に弥生土器については、これまで岩倉地域においては報告がなく、岩倉地域史研究に新たな成果を報告した。

2,同志社高等学校理科館地点 1990年2月~3月および5月

同志社高等学校理科館改築予定地(1032m2)内に8か所の調査区を設定し、発掘をおこなった。遺構としては溝状遺構、沼状地形、岩倉川の旧河道が検出された。遺物としては、シルト層で構成される沼状地形にともなって弥生時代後期に属する少量の土器、昆虫遺体、カヤ、ツクバネ等の木の実、ヒノキ属の樹根が検出された。その他の遺物としては、弥生時代後期に属する弥生土器、古墳時代および古代の須恵器、土師器、須恵質土器、灰釉陶器、中近世に位置づけられる白磁が出土している。

3,同志社高等学校情報センターおよび生徒部棟地点 2002年8月

同志社高等学校情報センターおよび生徒部棟建設予定地に、東西10mのトレンチ2か所をふくめ計4か所の調査区を設定し、発掘をおこなった。I・IIトレンチでは現地表下1.8mまで、III・IVトレンチでは現地表下2.3mまで調査をおこなった。南に緩やかに下がる旧地形に25~55cmの客土をして校地の造成がおこなわれていることが判明した。トレンチ相互間に多少の相違はあるものの、基本的には旧岩倉川に起源をもつ、粒度と粘度を異にする砂礫層が互層となり、旧地表下1~1.2m付近に、20~35cmの植物遺体を多量に含むシルト層を挟んでおり、一時的に湿地状の景観が現れた時期があったようである。このシルト層は同志社高等学校理科館地点の調査でも確認されている。いずれのトレンチおよび土層からも遺物の出土はなく、また遺構も検出されなかった。

 京都大学においては、7~8世紀の岩倉古窯跡群の分布調査と、それにともなう須恵器と瓦についての研究がおこなわれている。以下にその成果を記す。

 1970年から1991年にかけての京都大学考古学研究会による岩倉地域での踏破調査によって、当該地域の7~8世紀における須恵器と瓦を中心とする窯業生産があきらかにされた。須恵器窯として、深泥池南岸・深泥池東岸・妙満寺・妙満寺裏庭・木野・中の谷・皆越・はぶ池窯跡が、瓦窯として深泥池瓦窯跡が、須恵器・瓦兼業窯として、木野墓窯跡、来栖野窯跡群、元稲荷窯跡が確認されている。

須恵器生産においては、各窯跡から検出された遺物の詳細な分析によって、7世紀第1四半期 ~7世紀第2四半期に深泥池東岸窯跡、元稲荷窯、深泥池南岸窯跡が、7世紀後半に木野墓窯跡、妙満寺窯跡、深泥池東岸窯跡、妙満寺裏庭窯跡、来栖野窯跡群が、7世紀末~8世紀初頭に 木野窯跡、中の谷窯跡が、8世紀中葉を中心として皆越窯跡が、8世紀後葉に、はぶ池窯跡が操業していたと結論づけている。

 また、7世紀の北山背における古代寺院の創建にともなう瓦生産との関係において、特に7世紀前半に遡る元稲荷窯について、北野廃寺式軒丸瓦を問題とし、同笵瓦の焼かれていた隼上り窯で意匠が生み出され、その後洛北で展開することから、宇治から岩倉へと笵型が移動し、元稲荷窯で北野廃寺式軒丸瓦の製作にたずさわった工人達がその後、北野廃寺瓦窯での北野廃寺式軒丸瓦などの瓦生産にたずさわり、さらにその瓦が広隆寺や大津の穴太廃寺へと配給されていることをあきらかにしている。

 また、北野廃寺の創建にともなう元稲荷窯の操業のあと、岩倉における瓦生産は一時中断され、7世紀第3四半期に再開される。これは北白川廃寺の創建にともなうもので、木野墓窯の操業に始まり、以後多くの窯跡で瓦を生産している。木野墓窯にわずかに遅れて深泥池瓦窯でも操業がおこなわれるが、両者は、軒丸瓦の瓦笵の違いや、平瓦に見られる叩き板が全く異なること、さらに瓦専業窯と須恵器・瓦兼業窯という操業形態の相違により、工人の系統が異なっていたと考え、木野墓窯においては新来の瓦工のもとで岩倉の須恵器工人が動員されて操業したものであり、深泥池瓦窯の工人は7世紀前半の元稲荷窯の系統につながり、広隆寺や穴太廃寺の瓦生産にたずさわったあとで、再び岩倉に戻ってきた人々であるとしている。

 その後、深泥池瓦窯の瓦工たちは北野廃寺の軒丸瓦の生産にあたり、木野墓窯の瓦工たちは、特殊叩きと一括した平瓦を生産したグループや、来栖野窯跡群で生産にあたったグループなど、複数の系統に分かれ、一部が広隆寺や北野廃寺の瓦生産にたずさわったとしている。さらに一定の時間の経過後、広隆寺や北白川廃寺出土の平瓦からうかがえるように、異なる文様の叩き板を保持していた木野墓窯系統の工人と深泥池瓦窯系統の工人が同じ工房において協業するようになったとしている。

 岩倉での瓦生産は当初、在地の寺院建立に際し、そのための瓦の供給という側面をもって開始されたが、のちに、寺院近傍での専業生産へと移行して行くなかで、岩倉の瓦の生産基地としての役割は7世紀の中で終焉し、以後は須恵器生産が続いて行くことになる。そして、9世紀初頭に平安京所用の瓦を生産する官営瓦窯のひとつとなり、緑釉瓦生産という最先端の技術を保持して、都の需要に応じる瓦生産の拠点として、7世紀の在地的な瓦生産から、その役割を変化させて瓦生産を再開するとしている。

 京都市による岩倉忠在地遺跡の調査は、1981年から2002年まで断続的におこなわれている。以下にその主な成果を記す。

1,市立洛北中学校校舎地点 1981年5月~6月 150m2

近辺の地山層となっている茶褐色砂泥層が一部認められたほかは、大部分が流れ堆積の砂礫層で、弥生時代から古墳時代の遺物包含層が確認された。また砂礫層の上面で、東西方向の平安時代中期の溝が一条検出された。幅1~1.5m、深さ10~30cm。砂礫層の上層では平安時代の土師器の皿と甕、須恵器の杯と壺と甕、緑釉陶器の椀と皿等が、下層からは量は少ないが、弥生時代後期~古墳時代後期の土器の壺や甕等が出土している。

2,市立明徳小学校南分校地点 1983年 600m2

上から耕土、床土、暗褐色泥砂層が堆積し、その下に砂礫層が3m以上堆積していることを確認するとともに、平安時代~鎌倉時代の遺物包含層を検出。暗褐色泥砂層からは平安時代~鎌倉時代の遺物が出土、下層の砂礫層からは遺物の出土は認められなかった。遺構としては、0.8m×1mの楕円形を呈し深さ15cmを測るものと、径70cmのほぼ円形で深さ25cmの土坑2基が検出されている。遺物としては、平安時代~鎌倉時代の土師器、須恵器、黒色土器、緑釉陶器、灰釉陶器などが出土している。これらの遺物のほとんどは暗褐色泥砂層より出土したものであり、土坑から出土した遺物は少ない。

3,岩倉忠在地遺跡 2002年2月 立会。

洛北中学校内に二ヶ所の調査区が設けられ、一方では地表下0.6m以下でにぶい黄褐色砂礫の地山を、他方では地表下0.8m以下で褐色泥砂の地山を確認している。岩倉東公園予定地内に設けられた調査区では、地表下1.62mで古墳時代前期の包含層が確認され、土師器壺・甕・鉢・高坏が出土している。

 他に、京都市住宅供給公社・岩倉中在地調査団によって、盆地北部の岩倉中在地遺跡が調査されている。

岩倉中在地町宅地造成地域内 1972年。

明確な遺構は検出されず、遺物としては、縄文時代の石匙・石鏃、奈良時代の須恵器・土師器、平安時代の土器・ 陶磁器・銅銭・瓦、中世の陶磁器、近世の銭貨等である。

 これまでの調査で、岩倉地域においては縄文時代から近世に至るまでの遺構、遺物が確認されている。そのなかで重要視しなければならないのは、須恵器や瓦、緑釉・灰釉陶器等の生産にかかわる遺構、遺物である。その生産の様相は、京都大学考古学研究会が述べているように、時代とともに変化をしてきている。そういったなかで平安時代以降、岩倉地域は、平安京での需要にこたえるための、瓦等の生産地としての役割を担うようになる。

 その一方で、岩倉地域においては条里地割の存在がはやくから指摘されている。条里制施行の説明としては、これまで現在に残る「三宅」という地名と、古代の「屯倉」との関係のなかで述べられることが多かった。

 しかし、岩倉地域の性格を考えると、都の需要を満たすための生産地としての視点から、岩倉を重視し、条里制を施行したという見方が、屯倉と条里制の関係を追う以上に、必要になってくるのではないのだろうか。

 また、製品輸送をおこなう場合、岩倉で生産された製品が一旦集積されてから平安京へと運ばれていたと考えられる。その集積がおこなわれた場所としては、岩倉地域最大の遺跡であり、縄文時代から近世まで続く岩倉忠在地遺跡がその可能性が高いと考えられる。

 これから岩倉地域史を考えてゆく場合には、生産と条里地割、岩倉忠在地遺跡に代表される集落と条里地割の関係に注意をしてゆく必要があるのではないかと考えられる。


II 調査の成果

1 調査の経緯と概要(松田)

i 調査の経緯

 今回の発掘調査は、同志社大学が同岩倉校地内に建設を予定している、外国人客員教員宿舎(看山ハウス)新築工事にともなうものである。同志社大学では、上記の周辺地域の発掘調査成果をふまえ、同志社大学歴史資料館を調査主体とし、当該地点における埋蔵文化財の確認と記録を目的に、2003年7月4日(金曜日)から7月18日(水曜日)の期間で発掘調査を実施することとなった。

ii 基本層序

 基本層序は、地表下40㎝までが腐植土を含む暗褐色土と砂質土(第1層:表土)、その下部に 厚さ15cmの黒褐色土・10YR3/2シルト(第2層:耕作土)、その下に厚さ20~30cmの褐色土・10YR4/3及び4/4粘土及び砂混じりシルト(第3層:床土)が堆積し、地表下70~80cmで灰褐色土・10YR5/1~6/1砂および礫(地山)にいたる(図060710111220,21,22および写真03)。これらの堆積状況をふまえ、第3層上面と地山上面で遺構の検出を行った。なお今回の調査では、調査区を大きく東西にわけて、掘削土の置場を確保しながら掘り下げを行い、調査区内に計6つのトレンチを設定し、トレンチごとに掘り下げと記録を行った(図3)

iii 調査の概要

 第3層上面では土坑および溝を検出した。溝は調査区南半部で南北方向に、調査区北半部で東西方向に軸をそろえるもので、耕作にともなう溝と考えられる。土坑、溝ともに出土遺物は少なく、近代以降の磁器片と、混入とみられる須恵器が数点出土している。なお、第3層上面で検出した井戸(土坑5)から、須恵器とともに17世紀初頭に位置づけられる土器・陶磁器の破片が出土している。後述する条里地割遺構の一部を切る遺構である。

 地山上面では東西方向に軸をもつ条里地割遺構を検出した。本遺構は地山上面に、盛土によって形成されている。盛土内およびその周辺からは、8世紀から9世紀にかけての須恵器が出土している。この遺構が機能していた年代は、近代以降の土坑により遺構が切られていること、近代以降の耕作土により遺構が埋没していることから、近代までの長期間にわたる可能性がある。また、調査区の東端部では地山を削り出した南北方向に伸びる高まりがみられた。東西方向の畔との関連性も考えられる。

図3
図6
図7
図10
図11
図12
図20
図21
図22
写真03

2 遺構と遺物

(表01)

i 遺構(渡辺)

(図0405060913,14,15,16,17,18,19)

条里地割遺構

(写真04,05,06,07,081120)

 東西方向に軸をもつ畔状の遺構である。トレンチ2からトレンチ6にまたがって検出された。幅は畔上面の広いところで1.7m以上、長さは調査区内で17m以上を検出している。盛土の高さ約40cmが残るこの畔は、地山上面に、地山起源の砂礫が混じる盛土によって形成されている。上層は礫が細かく、堅くしまった粘質土である。土色は10YR4/3及び4/4で、上部に2、3cm粒の石を敷きつめていた。路面の可能性が考えられる。盛土の中・下層は大粒の礫が多く、上層に比べやや砂質である。中層は10YR4/3及び4/4粘土、下層は10RY4/3粘土及びシルトで、掘り下げ中に土器、陶器が出土している。また、条里地割遺構の幅を確認するため、トレンチ6の一部を拡張した結果、東西方向にのびる浅い溝状の落ち込みを検出した(写真19)。条里地割遺構の北裾部分を示す可能性がある。 なお、トレンチ2の下層を除去した地山上面で、土坑状の落ち込み(土坑13・後述)を検出している。

(写真0116)

 溝1はトレンチ1第3層上面の調査区東端で東西方向にはしり、東西の長さ230cm、南北の幅90cmを検出した。溝2は同じくトレンチ1の調査区東端で、南北方向にはしり、南北の長さ266cm、東西の幅110cmを検出し、溝1によって切られている。溝4も同じくトレンチ1の調査区東端沿いで南北にはしり、南北の長さ223cm、東西の幅63cmを検出し、同じく溝1によって切られる。溝5も同じくトレンチ1の調査区東端を南北にはしり、南北の長さ362cm、東西の幅82cmを検出し、北端を溝1に、南側を東西両方向から土坑に切られている。溝3はトレンチ1第3層上面のほぼ中央を東西方向にはしる。東西の長さ368cm、南北の幅90cmを検出し、東端を土坑で切られる。

 溝6はトレンチ2第3層上面で、検出された畔状遺構の北側で東西方向にはしる。東西の長さ300cm、南北の幅82cmを検出したが、条里地割遺構の掘り下げとともに消滅した。

 溝7はトレンチ5第3層上面の調査区南側で南北方向にはしり、南北の長さ150cm、東西の幅32cmを検出する。溝8はトレンチ5第3層上面の調査区北側で東西方向にはしる。西半分は正方形をなし、東半分は中央部が南側へ凸形に突出する。東西の長さは370cm、南北の幅は最大160cm、最小25cmを検出する。溝9はトレンチ5第3層上面の調査区ほぼ中央で南北方向にはしり、北端より500cmのところから西側へ幅を増す。南北の長さ700cm以上、東西の幅は最大90cm、最小20cmを検出する。

土坑

 土坑1はトレンチ1第3層上面の調査区南側のほぼ中央で、南北の幅82cm、東西の幅110cmを検出し、東側で南北にはしる溝を切る土坑をさらに切っている。土坑2はトレンチ1第3層上面の調査区南側の西寄りに、径40cmを検出する。周囲にほぼ同形の土坑が当土坑を含め5つ群在する。土坑3はトレンチ1地山面の調査区北東寄りに、南北の幅80cm、東西の幅135cmを検出する。土坑4はトレンチ1地山面の調査区南東寄りに、南北の幅70cm、東西の幅110cmを検出する。

 土坑5は、石組の井戸である(写真14)。トレンチ4第3層上面の調査区西端で、南北の長さ200cm、深さ140mを検出したが、西側は調査区外にのびるため規模は不明である。埋土は、上層が10YR4/2砂混じりシルト、下層が10RY4/3及び4/2粘土及びシルトである(図09写真15)なお土坑12は、土坑5の井戸の掘り方と思われる。南北の幅235cm、東西の幅145cm以上を検出する。

土坑6はトレンチ3第3層上面の調査区東端で、南北の幅40cm、東西の幅130cmを検出するが、南は調査区外にのびるため規模は不明である。土坑8の南側を切っている。土坑7は同じくトレンチ3第3層上面で、南北の幅60cm、東西の幅85cmを検出する。土坑6と同じく、土坑8をきっている。土坑8は、同調査区内の北端に東西にはしり、東西の長さ240cm、南北の幅40cmを検出するが、東西両端及び北端が調査区外にのびるため規模は不明である。南側を土坑6、7に切られている。土坑9はトレンチ4第3層上面の調査区北端に、南北の幅65cm、東西の幅200cmを検出するが、調査区外にのびるため規模は不明である。同じく北端にある土坑を切っている。

 土坑10はトレンチ5第3層上面の調査区東側中央に、南北の幅80cm、東西の幅90cmを検出する。東側が溝に、西側が土坑11に隣接する。土坑11は同調査区西端中央に、南北の幅180cm、東西の幅165以上cmを検出するが、調査区外にのびるため規模は不明である。南に向かってふくらみをもつ。 土坑13はトレンチ2の条里地割遺構の最下部、地山上面で、南北の幅110cm、東西の幅85cmを検出する(写真09)。西側は調査区外へのびるため規模は不明である。

表01
図04
図05
図06
図09
図13
図14
図15
図16
図17
図18
図19
写真4
写真5
写真6
写真7
写真8
写真11
写真19
写真20
写真1
写真16
写真14
写真15
写真9

ii 遺物(市澤)

(図23・写真21,22,23)

条里地割遺構

(図23-5・7・16・17・24および写真2123)

 条里地割遺構検出中の遺物としては、土器、須恵器、瓦、鉄滓がある。

17は土師器である。色調は5R6/6であり、胎土はきめ細かく、焼成はややあまい。高台ははりつけ高台である。高台は高く、内面は緩やかにたちあがる。外面は中央部分でおさえを受けている。高台端面は平らに成形されている。高台径は14cmである。器種は坏身である。産地は不明である。時代は8世紀前半代と考えられる。

 条里地割遺構の上層からの出土遺物としては、土器、須恵器、鉄製品がある。

5は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。調整は内面が回転ナデによる調整をうけ、外面は粗雑である。体部外面中央でおさえをうける。外面上部はヘラ削りがなされている。内面は両端部でおさえをうけている。径は上部平坦部が7.6cmであり、 残存部で11.0cmである。成形にはろくろが用いられていると考えられる。器種は坏蓋である。

7は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内面と外面体部は回転ナデによる調整をうけ、外面底部はヘラ削りによる調整をうける。体部はゆるやかにたちあがる。底部径は6.8cmである。器種は坏身であると考えられる。

 条里地割遺構の中層からの出土遺物としては、土器、須恵器がある。

16は須恵器である。内面にのみ自然釉がかかっている。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。体部は外反しながらたちあがる。口縁端部は内面外面ともにわずかにはりだしている。口径は25.0cmである。器種は壺と考えられる。

 条里地割遺構の下層からの出土遺物としては、土器、須恵器、鉄滓がある。

24は鉄滓である。流出滓と考えられ、図の右から左方向に流れた波状の痕跡がある。また、右半部は銹が少ないが、左半部は銹が多く、小さな気泡が抜けたと思われる孔が多くあく。裏面は表面に比べてややなめらかで、丸みをもっており、溝に溜まった形状を反映している。鉄分を多く含み、精錬技術としては低い段階のものであると考えられる。

その他

その他、遺構にともなう遺物と包含層の出土遺物について、トレンチごとに詳述する(図23-1~4・6・8~15・18・20~23および写真21,22,23)。

トレンチ1

 表土掘削中の出土遺物としては、土器・陶器、磁器、須恵器、鉄滓がある。

22は染付である。透明釉が施されている。体部は緩やかにたちあがり、口縁部端部は尖り気味に成形されている。口径は5.6cmであり、高台径は3.0cmであり、器高は3.3cmである。器種は小坏である。内面には判読不能であるが、朱書がある。時代は近代以降のものである。

 溝1からの出土遺物としては、土器、磁器、須恵器がある。

4は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。器種は蓋と考えられる。外面にははっきりとした稜線が一本めぐっている。口縁端部は下にむかってすこしはりだしている。成形にはろくろが用いられている。小片であるため、直径は不明である。 時代は9世紀前半代と考えられる。

 溝2からの出土遺物としては、土器、陶器、磁器、鉄製品、鉄滓がある。

20は陶器である。内面にのみ釉が施されている。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。外面には格子状に筋が入れられている。体部はゆるやかにたちあがり、口縁部端部は丸みをおびている。口径は5.8cmであり、高台径は2.6cmであり、器高は2.4cmである。器種は小坏である。23は染付である。透明釉がかかる。体部はゆるやかにたちあがり、口縁部端部は丸みをおびている。口径は11.0cmであり、高台径は4.8cmである。器種は皿である。

トレンチ2

 地山上面からの出土遺物としては、土器・陶器、磁器、須恵器がある。

9は須恵器である。器種は高坏と考えられる。胎土はきめ細かく、焼成はややあまい。脚部ははりつけである。脚部径は4.6cmである。外面は回転ナデによる調整を受けており、内面はユビナデによる調整を受けている。

トレンチ3

 表土掘削中の出土遺物としては、土器・陶器、磁器、須恵器、鉄製品がある。

10は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内面外面ともに回転ナデによる調整がなされている。体部はやや垂直にたちあがる。外面底部は回転ヘラ削りがなされている。高台は低く、はりつけ高台である。高台の内側部分は丸みをもって調整されている。高台底部に一本沈線がめぐっている。高台径は9.2cmである。器種は坏身と考えられる。

 第3層からの出土遺物としては、土器、磁器、須恵器、鉄製品がある。

12は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内面外面ともに回転ナデによる調整をうけている。体部はゆるやかにたちあがり、最下部でおさえをうける。外部底面は回転ヘラ削りがなされている。高台は低く、はりつけ高台であり、やや焼きひずんでいる。底部端面は平らに調整されている。高台径は8.0cmである。器種は坏身である。

トレンチ4

 第3層からの出土遺物としては、土器・陶器、磁器、須恵器、緑釉陶器の軟質素地がある。

14は緑釉陶器の軟質素地である。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。内面外面ともに丁寧なナデ調整が施されている。内面底部に一本の沈線がめぐる。高台は削り出し高台であり、底面は平らに調整されている。高台径は8.0㎝である。器種は碗または皿と考えられる。19は土師器である。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。内面と口縁部端部は回転ナデによる調整をうける。外面体部はユビおさえによる調整をうける。体部は外反し、口縁部は丸みを帯びる。口径は9cmである。器種は皿と考えられる。  

 土坑5(井戸)からの出土遺物としては、土器・陶器、須恵器、石がある。

1は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内外面ともに回転ナデによる調整がなされている。口縁端部は両面からおさえをうけ、下方にはりだしている。小片のため径は不明である。器種は坏蓋である。2は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。内面外面ともに回転ナデによる調整をうける。口縁部端部は下方にはりだしている。小片のため径は不明である。器種は坏蓋と考えられる。18は土師器である。色調は7.5YR8/3~7.5YR8/4であり、胎土はきめ細かく、焼成はややあまい。内面と口縁部は回転ナデによる調整をうける。外面体部はユビ押さえによる調整をうける。小片であるため径は不明である。器種は皿である。

また、図示できないが瀬戸美濃系の灰釉陶器も出土している。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。小片であるため機種、径ともに不明である。時代は16世紀末から17世紀初頭にかけてである。

トレンチ5

 第3層からの出土遺物としては、土器・陶器、磁器、須恵器、瓦がある。

21は磁器である。透明釉がかかる。胎土はきめ細かく、焼成は良好である。体部は内湾しつつたちあがる。口縁部は尖り気味に成形されている。外面底部は釉が施されていない。口径は4.0cmであり、高台径は3.0cmである。最大径は4.8cmである。器高は3.2cmである。器種は小坏である。

 土坑11からの出土遺物としては、土器、須恵器がある。

3は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内外面ともに回転ナデによる調整をうける。外面中央部でおさえをうける。内面は口縁部端部で軽いおさえをうける。口縁部端部は下方にはりだしている。小片のため径は不明である。器種は坏蓋である。

トレンチ6

 第3層からの出土遺物としては、須恵器、鉄製品がある。

6は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内外面ともに回転ナデによる調整をうける。つまみ部は低くつぶれている。外面には回転ヘラ削りの痕が残っている。残存径は9.0cmである。器種は坏蓋である。

トレンチ6拡張部分

 第3層からの出土遺物としては、土器・陶器、須恵器がある。

11は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内外面ともに回転ナデによる調整をうけている。体部はゆるやかにたちあがる。底部は回転ヘラ削りがなされている。高台ははりつけ高台であるが、はりつけ後、両面から丁寧なナデを施している。底部は平らに成形されている。小片のため径は不明である。器種は坏身である。15は須恵器である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。内面に二か所、調整のためとみられるユビ痕がある。外面にはタタキの痕が残っている。器種は甕と考えられる。

 その他表採遺物として、土器、須恵器、緑釉陶器の素地がある。

8は須恵器あるいは緑釉陶器の硬質素地である。胎土はきめ細かく、焼成はややあまい。器種は皿と考えられる。内面底部に沈線がめぐる。高台は削りだし高台であり、高台底部は回転ヘラ削りがなされている。高台径は6.0cmである。13は緑釉陶器の硬質素地である。胎土はきめ細かく、焼成は堅緻である。器種は皿と考えられる。高台は削りだし高台と思われるが、断面に軟質の胎土を残すため、複雑な製作過程を経た可能性も残す。高台底部は回転ヘラ削りがなされている。高台径は8.8cmである。

図23
写真21
写真22
写真23

III まとめ(松田)

 今回の発掘調査では、条里地割に関連する遺構を検出することができた。この条里地割の名残については、明治年間の地形測量図にも記載されており、同志社商業高校が昭和4年(1929)に当地へ移転する以前の地割と景観を知る資料となる。今回の調査では、調査面積の制約もあり、条里地割の成立時期を厳密に決定できる資料を得ることができなかったが、条里地割遺構の盛土内に包含されていた須恵器の年代から、その成立が8世紀をさかのぼることはないといえる。また、同志社高校敷地内の西側(同志社高等学校理科館地点)において行われた1990年の調査で、沼地状地形の上に堆積していた包含層から10世紀代に位置づけられる灰釉陶器が出土していることも、上記の年代を考えるうえで参考となる。よって、すくなくとも現状では、9・10世紀頃にはこの条里地割が成立していたと考えてもよいのではないだろうか。  

 今回の調査で注目されるのは、少量ではあるが土器・陶器とともに、鉄滓が出土している点である。これは、周辺に鍛冶関連の空間が存在していたことを示すとともに、古代の岩倉地域でほぼ唯一の集落遺跡といってよい岩倉忠在地遺跡や、今回の発掘調査地点の性格を考えるうえでも重要な発見である。  

 岩倉地域は、すでにふれたように平安京に供給される土器・瓦の主要生産地でもある。これらの需要にともなう当地域の重要性の高まりや、安定したやきもの・瓦製品の供給を考慮した製品集散地(たとえば屯倉・御厨に代表される官営施設)の造営が、上記のような条里地割の施行につながったとも考えられる。古代窯業生産との関係で論じられることの多かった当地において、条里地割と鍛冶に関連する資料が得られたことは、岩倉地域での条里の成立背景、生産・流通経路の理解に、大きな手がかりを与えるものといえよう。

 ところで今回調査を行った地点は、半町ほど条里地割とずれをみせる区画の南端にあたる。「門田」という字名からみても、今回みつかった条里地割遺構が、中世以降に顕著な方形区画を伴う居館の一部として利用された可能性もある。今回の調査では居館にともなう遺構と考えられるものは確認できなかったが、中・近世に位置づけられる土器・陶磁器が少量出土している。周辺の発掘調査でも中・近世の土器・陶磁器の出土が確認されており、後世に条里の整備がおこなわれたことも考慮しておく必要がある。土師器焼成に代表される近世以降の当地の様相もまた、消費地としての都市遺跡である京都に程近いという位置関係、上記のような条里地割の整備と新たな地割の成立のなかで読み解くならば、製品の集散と宿場町的な機能を有した町並みの景観として復原することも可能である。

 また、今回検出した耕作にともなう遺構とその埋没状況から、当地の土地利用が1929年の同志社専門学校高等商業部の移転以後大きく変わったことが窺える。岩倉地域における近代化資料のひとつとして、貴重な資料を得たといえる。

 本報告では、岩倉盆地北部の歴史的様相や、岩倉盆地西部の生産遺跡群での研究成果を十分に生かすことができなかった。これらを含め、検討しきれなかった多くの問題点を議論し、岩倉地域史の実態を解明してゆくことがわれわれに残された今後の課題である。


参考文献

  • 岩倉大鷺町町史編纂委員会1981『岩倉大鷺町』
  • 同志社大学校地学術調査委員会1976『岩倉校地体育講義棟建設予定地発掘調査概要』同志社大学校地学術調査委員会調査資料No.7
  • 同志社高等学校・同志社大学校地学術調査委員会1991『同志社高等学校理科館改築に伴う埋蔵文化財の調査』
  • 同志社大学歴史資料館2002「同志社高等学校情報センター及び生徒部棟(仮称)建設に伴う埋蔵文化財確認調査報告」
  • 京都大学考古学研究会1992『岩倉古窯跡群』
  • 財団法人京都市埋蔵文化財研究所1983「50 岩倉忠在地遺跡」『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』
  • 財団法人京都市埋蔵文化財研究所1985「26 岩倉忠在地遺跡」『昭和58年度 京都市埋蔵文化財調査概要』
  • 京都市文化市民局2003「洛北地区」『京都市内遺跡立会調査概報 平成14年度』

抄録

調査主体

 同志社大学歴史資料館

調査担当

 鋤柄俊夫・松田度

調査補佐

 渡辺悦子

調査参加者

 市澤泰峰、小西沙織、斎藤夏果、杉本晃佑、眞々部貴之

遺跡名

 岩倉大鷺町地点(いわくらおおさぎちょうちてん)

調査地点

 京都市左京区岩倉大鷺町36番地

遺跡の中心座標

 北緯35°04′02″ 東経135°47′18″

調査期間

 2003年7月4日(金)から7月18日(水)まで

調査面積

 241m2

調査の原因

 同志社大学 外国人客員教員宿舎(看山ハウス)新築工事にともなう調査

調査の目的

 当該地点における埋蔵文化財の確認と記録

遺跡の種別

 集落遺跡

主な時代

 古代

主な遺構

 条里地割遺構、近代以降の溝および土坑

主な遺物

 須恵器、土師器、緑釉陶器、陶磁器、鉄滓


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