最終更新日 2003年6月19日

はじめに

同志社大学では、新研究室棟(仮称)の建設にともない、新町キャンパス第1従規館跡地の発掘調査を、4月7日から7月4日の予定で実施しています。調査の成果については、これまで同志社大学歴史資料館のオリジナルホームページ(http://hmuseum.doshisha.ac.jp)で随時公開してきました。

 今回、発掘調査の現地説明会とあわせて、関連資料を用いた企画展示を実施することになりました。

同志社大学新町キャンパスの発掘調査

 これまでにも新町キャンパスでは過去3回の発掘調査が行なわれています。

 新町別館地点は1974年に調査が行なわれました。現在の地表面から2.5~3m下に黄灰色の硬い礫層があり、その層から掘り込まれた南北朝期の堀が発見されています。堀は規模が幅3m、深さ1.5mで、東西を軸とします。堀の中からは土製の鍋・釜や中国製の陶磁器が見つかりました。現在その堀は、一部が新町別館棟の西側に保存され、見ることができます。
 1993年には育真館地点の調査が行なわれ、16世紀前半のかわらけ(素焼きの皿)溜まりや、17世紀初めの石組などが検出され、「乾山」銘の京焼や、「信光山」銘の信楽焼きの壺などがみつかっています。
 2002年には新町北別館地点の調査が行なわれ、新町別館地点で発見された堀の延長部分と、江戸時代の鋳造工房および鏡の鋳型、「稲村備後守藤原吉長」銘のある柄鏡が見つかっています。

今回の調査地点-推定本満寺跡-

 今回の調査地点(同志社大学第1従規館地点)は、同志社大学新町キャンパスの南端に位置し、その北半が近衛殿表町、南半が元本満寺町に属します。南半部は、その地名から法華宗寺院本満寺の跡地と推定されています。本満寺とは?本満寺とは、現在寺町通鶴山町に所在する法華宗寺院です。室町時代、今回の発掘地点である元本満寺町にあったと言われています。室町時代の京都において町衆たちの拠り所ともなっていた法華宗寺院は総本山21ヶ寺を数えましたが、本満寺は上京に所在したそれら数ヶ寺の総本山のひとつとされています。本満寺は、寺伝によると室町時代の応永17年(1410)、近衛殿の敷地内に日秀(にっしゅう)によって開かれたと言われています。日秀は、関白・近衛道嗣(みちつぐ)、すなわち近衛殿を所有する人物の長男にあたるとされます。本満寺はやがて近衛殿の南外側に移され、その寺域は伝承などから元本満寺町の北側全域を占めていたと推測されます。

発掘調査の概要

 今回の発掘調査は、第1従規館跡地に建設される新研究室棟(仮称)の建築範囲に調査区を設定し、深さ1.5mまでをほぼ全面、それ以下は、柱の基礎工事にかかる箇所のみを調査しています。調査の結果、平安時代から江戸時代にわたる遺構・遺物が発見されました。以下、主な遺構と遺物について概要を述べます。

江戸時代

  • 1.元和年間の火災(1620年ごろ)によって焼け出された焼き物が見つかりました。
  • 2.江戸時代の町屋遺構が見つかりました。

※これらの資料は多様なた江戸時代の町屋の構造とそこで暮らしていた人々の生活を知る重要な資料といえます。

1.江戸時代、元和年間の火災(1620年頃)によって火を受けたやきもの

 調査区北端では、地表面から深さ1.7mの直径2.5~3mの土坑から、近世初頭頃の火災にともなう焼土とともに備前・丹波・信楽・瀬戸美濃(天目・織部・志野)・唐津・中国製染付・土師器・焼き塩壺など多種多様なやきものが見つかっています。この中には、火事で焼け出された焼き物が多く含まれています。
これらは、当時この付近で生活していた人々の身の回りにあった焼き物のセットを知ることのできる良好な一括資料です。

 また、これらの遺構にかかわる2度の火災層を確認しています。
これらの火災は、それぞれ元和年間(1620年頃)の火災と、享保の大火(1730年)あるいは天明の大火(1788年)と想定されます。

2.江戸時代の町屋(石組の井戸と地下蔵、蔵)

 調査区の東端と中央で蔵とみられる建物が、調査区南端で石組の井戸と地下蔵、建物の基礎部分が見つかっています。

 調査区南端に位置する石組の地下蔵は長軸240cm、短軸140cm、深さ110cmの貯蔵庫とみられるものです。多量の土器・陶磁器が出土しています。年代は、18世紀前半に廃棄されたと考えられます。

 井戸は10基以上見つかっています。石組みのものが多く、直径は平均1m前後です。年代は江戸時代から明治時代におよびます。

 調査区の中央では、蔵の基礎とみられる石敷の一部がみつかっています。これは南の通りから奥へ入った、町屋の裏庭に位置します。また石敷は何度かの建替えが行なわれた痕跡がみられます。

 調査区東端では、焼土で埋まっていた蔵とみられる建物が見つかっています。

 石組の井戸と地下蔵と蔵は、その位置関係から、間口が狭く奥に長い、江戸時代の町屋の一部と考えられます。これらは、多様な形態があった近世の町屋の構造を知る重要な資料といえます。

室町時代

1.室町時代後半の溝が見つかりました。

 地表面から2~.2.5m下で、東西方向の溝が1条、南北方向の溝が2条見つかっています。

  • 南北方向の溝は、調査区東半に位置し、ほぼ並行して2条がはしります(溝18・21)。
  • 東西方向の溝は、調査区を横断するかたちで、南北方向の溝群よりも北側で見つかっています(溝11)。
  • 溝11は、幅1.26m、深さ1.18m。長さは1.85(6月6日現在)m。
  • 溝18は、幅1.3m、深さは場所によって異なり、20~60cm。長さ24.7m以上。
  • 溝21は、幅1.8m以上、深さ平均87cm前後、長さ23.7m以上。北端はわかりましたが、南端はトレンチ外にのびるため不明。

 これらの溝については、埋土の違い、遺構の切り合い関係や、出土した土器の年代から、溝21が15世紀後半に埋没し、16世紀前半に溝11・18が掘削され、短期間のうちに埋没したとものと考えられます。なお、溝11と溝18はつながる可能性があります。

 なお、これらの溝からは瓦が見つかっています。溝21からは、鎌倉時代(13世紀代)に位置づけられる「卍」をあしらった蓮華文軒丸瓦と、同じ時期に位置づけられる剣頭文軒平瓦が見つかっています。溝18からは、平安時代にさかのぼる複弁八弁蓮華文軒丸瓦が見つかっています。

まとめ

 今回の調査では、室町時代の溝が注目されます。

 溝21は、その規模から防御用の溝として掘削・利用され、その後15世紀後半に埋め戻されたと考えることができます。溝21が埋没した15世紀後半は、京中を戦乱の舞台とした応仁・文明の乱(1467~1477)との関連が考えられます。では、その溝によって守ろうとした場所はいったい何であったのか。現状では2つの可能性を考えています。

 ひとつは、15世紀代に当地にあったと推定されている法華宗寺院の本満寺、もうひとつは、それ以前からこの地にあったと伝えられる白雲とよばれた地区です。

 本満寺については、近衛政家の日記(『後法興院記』)の明応8年(1499)9月16日条に「詣本満寺、依物総有要害、仍門前ニ立輿令念誦」という記事があり、防御用の施設があったことがわかります。

 白雲については『実隆公記』文明6年(1474)8月5日条に、「今日、誓願寺の鐘を白雲構の外に於て鋳る。貴賤群集すと云々。」という記事があり、調査区の東隣にあたる現在の元新在家町一帯を堀が囲んでいた可能性があります。

 ところで、溝21から出土している瓦が注目されます。この瓦は再利用されたものと考えられますが、瓦の出土は、中世においては寺院に関連する場合がほとんどであるため、この溝21はより寺院にかかわるものと考えられることになります。

 したがって、15世紀後半に埋没した溝21は、先の『後法興院記』にみられたような、本満寺にともなう防御用の堀で、それが応仁・文明の乱に関わって埋められた可能性を考えてみたいと思います。

 一方溝11・18については、16世紀前半に埋められていることが注目されます。またやはり瓦が出土していることから寺院にかかわる溝と考えることができます。

 その点で記録をみると、天文5年(1536)におきた「天文法華の乱」の際には、本満寺では町衆を含めた法華宗徒が構や堀を築いて立てこもり戦ったと伝えられています。ただし溝11・18の規模と構造は、防御的ではなく、屋敷境を示す溝とみたほうが合理的です。

 そうすると溝11・18も、やはり本満寺にともなうものと考えられますが、「天文法華の乱」の直前の本満寺の「構」は、堀より築地などが主要な防御施設だった可能性が考えられることになるかもしれません。

 なお、天文年間後半期(16世紀中頃)の風景を描いたとされる「上杉本洛中洛外図屏風」では、本満寺が一条小川付近という、現在の調査地点よりやや南に描かれ、近衛殿の南隣付近には町屋が立ち並んでいます。本満寺は、「天文法華の乱」の後、京中への環往を許されますが、その場所は一条小川付近で、ここではなかったことになります。

 室町時代の堀については、下京においては調査例も多く、様々な研究がありますが、上京ではその様相がよくわかっていませんでした。今回の調査では、室町時代において上京各地に設けられていた堀や溝の一端を解明することができました。特に、上京の法華寺院のひとつである本満寺との関係についても新たな資料を提供することができました。今後、資料の増加をまって、その実態解明に向け、調査研究をすすめてゆきたいと考えています。