市澤 泰峰
同志社大学 文学部二回生

最終更新日 2003年2月18日

(1)室町殿とその周辺 室町時代、上京には室町幕府の将軍の邸宅である、花の御所(室町殿)がおかれていました。その室町殿がおかれていたと考えられている場所が、同志社大学の旧大学会館地点です。2002年度の発掘調査では、旧大学会館地点北地区から、『上杉家本 洛中洛外図屏風』に描かれた室町殿の築地塀の一部と考えられる石敷き遺構や、石組みの水路と思われる遺構の一部がみつかりました。このコーナーでは政治の中心であった室町時代の上京の姿にせまってみたいと思います。
 室町時代の初期には、公武の政庁が上京の東北部と東南部に定められ、上京は平安時代以来政治の中心地となりました。そしてこれらの政庁を中心として、武家邸や公家邸が軒を並べ、特に花の御所(室町殿)の近辺には、一色氏や細川氏などの有力大名の邸宅がみられ、武家街としての特徴を色濃くしていきました。洛中洛外図屏風にも室町殿をはじめとして、多くの立派な有力大名の屋敷が描かれています。
 そして、室町殿の東には相国寺が壮大に建立されます。この相国寺は永徳2年(1382)に足利義満が発願して建立に着手し、明徳3年(1392)に十年の歳月をかけ大工事が完成し、義満自らが臨んで落慶供養が営まれました。相国寺には室町幕府、ひいては武家政権の力を示す意味もありました。応永六年(1399)、相国寺のシンボルであった、高さ三六丈(約109メートル)の七重塔が七年の歳月をかけて完成すると、相国寺が景観において地域を圧するようになります。その偉容は室町幕府の力を内外に誇示するのに十分なものだったでしょう。
 明徳三年(1392)には、南北朝の合一とともに、すでに元弘元年(1331)以来北朝の皇居であった東洞院土御門御所が、以後正式に内裏として永く踏襲されることになりました。この御所は正親町、土御門、高倉、東洞院の囲まれた方一町を占めていました。しかし、内裏の中央には紫宸殿以下の公的儀礼の建物があるものの、二官八省の殿舎はみることができません。この形式は以後も継承され、火災などによる修改築を重ねましたが、場所については大きな変動はなく、現在の京都御所へとつながっていきます。また現在の同志社大学新町校地には近衛家の屋敷がおかれていたと考えられており、新町北別館(現在の新学生会館)地点での調査では屋敷の縁石と考えられる石列がみつかりました。その石列は、現在新学生会館の中庭に移築復元されています。
 視点を堀川通りの以西に移してみると、そこでは北野社を中心として、活発な商業活動が営まれていました。大舎人の織手が大舎人綾を織り出したり、七保と称する神人による麹の独占販売がなされたりしていました。彼らは座と呼ばれる同業者組合いをつくり活動を行っていました。
 このように、室町時代の上京は、堀川通りの以東は公武の政庁街として、堀川通りの以西は商工業の町として大枠の姿を把握することができます。

(2)応仁の乱と上京、そして近世の足音 文政二年(応仁元年、一四六七)、室町幕府の№.2であった管領畠山政長が自館に火を放ち御霊林に陣を張りました。畠山政長と畠山義就という両畠山家の確執が直接の導火線となり、さらに拡大されて応仁の乱が始まります。その後、細川勝元を将とする東軍と、山名宗全を将とする西軍の対立へと発展していくことになります。東軍である細川方は、室町殿をおさえ陣とし、西軍である山名方は堀川今出川付近にあった宗全邸を陣としたため、その中間地点に当たる小川一帯は、戦乱の当初から両軍の激しい争奪の的となりました。以後、京都は内乱の主戦場となり、時代も戦国時代へと急傾斜していきます。このときに活躍をしたのが足軽と呼ばれる人々です。
 戦いは武家間においてのみ終始せず、戦火は寺社や民家を襲い、人々はそうした戦火から自らの生命と財産を守らねばなりませんでした。そのためにさまざまな自衛手段が講じられました。たとえば築地塀や板塀などの防御施設を持つ「構」と称される館もそのひとつで、上京には実相院構、白雲構、柳原の構、讃州の構、御所東構、山名構、伏見殿構、北小路構、武衛構、御霊構などがみられました。これらは、武家の戦闘用のものと、公家の自衛のものに大別できます。この構がのちの町衆の防御施設である町の構へと発展していくことになります。構と同様に自衛手段として設けられたものに堀があります。後世の史料において堀を埋め戻したという記事が多く見ることから、戦乱に備えて上京の随所には多くの堀が掘られていたようです。構と堀はほとんどの場合併設されたようで、このころは堀と塀に囲まれた屋敷を多くみることができたようです。こうしてみると、応仁の乱とそれに続く戦国時代には、上京は構と堀によって全地域要害的な都市景観を呈していたのではないかと考えられています。そういった大乱の中で、禁裏六丁町や土御門四丁町といった新しい町々が生まれ、千秋万歳や作庭などの当時の文化にすくなからぬ足跡を残した人々が上京に集住していました。
 応仁の乱、それに続く戦国の争乱を経て、町々が復興し都市機能が回復する中で、町人の自治的動きも活発化してきます。このころの上京の町並みは、上立売室町を中心にして発達し、幕府の制札掲示場ともなっていました。しかし、天文五(一五三六)年天文法華の乱が勃発し、上京の三分の一が灰燼に帰したと伝えられています。
 応仁の乱からの上京の立ち直りはきわめて早いスピードで行われました。しかしその復興も天文法華の乱によってうちひしがれることとなり、その後織田信長の入京し行った、元亀四(一五七三)年の上京焼打ちによって上京は大打撃を受けることとなります。
 上京が天文法華の乱からの復興を目指すなかで、天文十二(一五四三)年、種子島に鉄砲が伝来します。それを契機として日本に南蛮船が来航するようになり、キリスト教や西欧の文化が伝えられ、世の中がダイナミックに動きだし、近世の足音を聞くようになってきます。

  参考文献
    「史料 日本の歴史 第七巻 上京区」1980年 京都市 平凡社
    「京都の歴史3 近世の胎動」1968年 京都市 株式会社學藝書林

線刻のある硯(長さ12cm):
裏面 中京区姥柳町遺跡(南蛮寺跡)出土