堀井 佳代子
同志社大学 文学部三回生

最終更新日 2003年1月15日

(1)拡大する京域 平安京は一条大路・九条大路・西京極大路・東京極大路に囲まれた、碁盤目状の都として造営されました。しかし時代が下るにしたがって、その姿は変貌し、京域も変わっていきます。
 斉衡年間(9世紀中葉)には拡張工事が行われ、平安京は北側に二町分拡大し、新しく拡大された部分にも厨家や貴族の邸宅が営まれました。また一方で、右京は10世紀頃から既に衰退が始まっていたといわれています。(「西京は人家漸く稀なり。殆ど幽嘘幾りや。」『池亭記』)
 11世紀には白河の地に、六勝寺や離宮が造営され洛東が都市化するとともに、右京は廃墟と化し、左京のみが存続していきます。
 安貞元年(1177)四月に太郎焼亡と呼ばれる大規模な火災により内裏は炎上し、この後、この地に内裏は再建されることはなく大きな空閑地が後に残りました。
 鎌倉時代に入ると公家邸が一条大路を越えて宮城外を北へと進出を始め、また鎌倉時代初期から「上町」「下町」という名称が見られ始めます。「左京」「右京」といった呼び方が右京の衰退により実体を失ったため、左京部分を北と南に分ける、新しい呼び方がなされ始めたものと考えられます。この語は「上京」「下京」という現在でも使われている地名に受け継がれています。
 このように京都はその領域を変化させながら存続してきたのです。

(2)上京について 上京は、京域内と郊外の両方を含む地域です。平安時代には、京域内の部分は貴族の邸宅や下級役人の生活の場である官衙町が占めていました。そして平安京がその領域を郊外へと拡大させるに従って、上京の宮城でなかった部分にも、公家邸などが営まれるようになります。
 新町通上立売上ルにあった持明院殿は宮城外にあたりますが、後高倉院(1129~1223)はここを仙洞御所とし、その後も後堀河上皇(1212~34)、後深草上皇(1243~1304)の仙洞御所にもなっています。付近印は他にも、西園寺家の今出川第、柳原邸などがありました。この公家邸等の進出とともに人家も北側に広がってきたようで、しばしば人家の火災が記録されています。

(3)大学会館地点の調査について 今回、大学会館地点の調査で、長さ50m以上、幅2m、深さ0.75mの鎌倉時代の溝が見つかりました。この溝は新町校舎の発掘調査で見つかっている、長さ60m以上、幅4m、深さ2m以上の溝とつながっていたものと考えられます。また、この溝は鎌倉時代の持明院大路の南側の側溝ではないかと推定されることから、現在の上立売通の道幅よりも、かつては道幅が南に広くなっていたと考えられます。
 鎌倉時代後期、大学会館地点を含む上京の地は貴族の屋敷や院の御所の立ち並ぶ、京都の中でも華やかな場所だったといえます。

鎌倉時代の溝(旧大学会館地点:西から)